楽観的か、悲観的か

―北東アジアの平和と安定―

 

()DRC研究参事

阿 部 博 男

 

はじめに

198912月(89.12と記載)、地中海イタリアのマルタ島で米国のブッシュ大統領とソ連邦のゴルバチョフ書記長とが「冷戦の終結」を宣言してから今年で13年になる。冷戦構造の崩壊はヨーロッパでは明瞭で、一方の旗頭であったソ連邦の解体は共産主義の非現実牲が露呈し、東側陣営を消滅させることとなった。そして、いわゆる東側衛星諸国はそれぞれ共産党一党支配の独裁的体制から離脱し、民主国家として独立を回復した。この冷戦構造崩壊の混乱の中で、民族間、宗教間の争い、そして国家の関わりが紛争の原因として浮かびあがることとなった。

第二次大戦後、40数年間北大西洋条約機構として東側共産主義勢力に対抗してきた西ヨーロッパ諸国は、主要15ケ国でヨーロッパ・ユニオン(EU93)を結成し経済・政治統合を計り、内12ケ国ではこの1月から共通通貨ユーロを流通させている。この統合の機運は軍事的にも繋がり、大事に至らないうちに域内で解決を図ることが考えられている。20世紀、ヨーロッパは二度にわたり大規模な戦禍を体験し、平和と安定を求める機運は早くから醸成され、経済的な国家間の協力を欧州経済共同体(58)として実現してきた。それが今日のEUとなり、今では加盟希望国多数を抱えて拡大しようとしており、地域的安定に大いに貢献している。

翻って、わが国周辺の束アジアでは、中華人民共和国(中国)や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が冷戦構造の崩壊(89)後も、従来の共産主義一党独裁体制をかたくなに守ることで、国家の生存と繁栄を図ろうとしており、統合については兆すらない。それでも、中国は既に市場経済を取り入れ変化してきており、北朝鮮もここにきて、関係周辺諸国との関係改善に向けた動きが見られる。

本レポートでは、北朝鮮の動向を軸に二次大戦後の変化の過程を振り返り、21世紀での地域の平和と安定について、楽観的に見るか、悲観的かを考察するものである。

 

2.わが国を巡る東アジア情勢

わが国周辺の不安定要困は、従来の東側の体制を頑なに保持する国から生じている。

社会主義経済の基礎となる生産手段の国有化は労働意欲を喪失させ、非効率な経済活動を生み、徐々に国の経済を弱めることは体験してきた。この問題の解決には競争原理を経済構造に取り入れる改革の必要性を認めることとなった。

効果・効率的計画経済立案の限界と実行可能性の把握の問題、それに非効率な生産状況は社会主義経済で解決できないアキレス腱であることが明らかになった。一方、資本主義経済をとるわが国をはじめ、韓国、台湾は、80年代のわが国の経済的発展につれて逐次、大幅な経済成長を遂げた。このため、資本主義経済が社会主義経済 を凌駕したかに見えたが、ことは複雑で、弱肉強食の貧富の格差是正が解決を迫られ、その欠陥を是正することで資本主義は生き延びたのである。すなわち両経済構造は、お互いに最長補短を必要とし、資本主義経済がより成功した結果を残したといえよう。

また、資本主義経済でも、韓国、台湾、シンガポールに見られるように、統制計画経済によって資源を重点的に配分し効率的に経済力を向上させて先進国の仲間入りをした国がある。資本主義経済が順調に機能するまで、必要な資本の蓄積を社会主義的計画経済で達成している。国政の基本的理念は最も重要であるが、その理念をどの様に現実に合わせて解釈するか、経済の実態に結び付けることができるかが指導者にとって結果を左右する重大な問題となるのである。中国では、78年、改革・解放路線を取り人れ市場経済に参入して経済を大きく発展させた。北朝鮮にとっては先例として学ぶところが多い筈である。

 

3.朝鮮半島情勢

 

(1)北朝鮮

北朝鮮は第二次大戦でこの地域を占領したソ連が樹立した国である。当時、共産主義勢力は国際的に勢力拡張を図っており、朝鮮半島が米国の勢力圏外とみた北朝鮮は軍を韓国へ侵攻させて朝鮮戦争(5053)となった。そして、朝鮮半島を2分した休戦ラインを挟んで半世紀にわたり南北両軍が対峙することとなったのである。

建国当初、工業立国として成功していた北朝鮮は、韓国が軍事クーデター(61)により政治的混乱を克服して軍事力を強化すると、それに対抗するため軍事費の増額を余儀なくされ、76年以降には守勢に廻ることとなった。

ソ連邦の崩壊(92)は北朝鮮に決定的な打撃をもたらした。経済・食料援助は停止し自力で国家の生存を図ることとなったのである。そのため、従来の社会主義憲法から「マルクス・レーニン主義」の文言を削除し(92.4)「人民大衆の自主牲を実現する革命思想」を国家の基本と規定して、体制の性格をより鮮明にうちだした。また、憲法に四大軍事路線を記述し冷戦後、改めて路線継続保持を明確に示した。

この時期、北朝鮮はソ連邦(90)と中国(92)が韓国と逐次国交を結ぶのを失望をもって見た。その後、両国との関係は疎遠になり、修復に約10年を要することとなった。

933月、北朝鮮は国際原子力機関(IAEA)の特別査察を拒み、核兵器開発の疑惑を深めた。その後、14ヵ月に及ぶ米朝協議の結果、両国は合意文書の調印(94.10)に漕ぎ付け、核独自開発断念と引き換えに軽水型原子炉の提供を受けることとなった。

そして朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)が日米韓三国を理事国とし国際共同事業体として発足した。核兵器拡散を阻止しようとする米国の意志は貫かれたのである。この合意書は、今日までの8年間、紆余曲折を経ながら政治的に利用され、この度、5年遅れで軽水炉発電所建屋の立ち上げ工事に着手(02.8)することができた。

急逝(95.7)した金主席の後継として金正日氏が朝鮮労働党総蓄已に推挙(97.10)された。既に、国防委員長として再任されており名実ともに国の最高指導者となった。金総書記は中国を訪問(01.1)し、中国の改革・開放経済をモデル化した「新思考経済」の導入を本格的に検討し始めたといわれている。

同じ頃ロシァのプーチン大統領は北朝鮮を訪れ、前年締結した親善・善隣・協力条約のフォローを行った。これに応えて金総書記はロシアを訪問(01.8)し、軍事技術の支援・協力を探ったが実質的な成果は得られなかったといわれている。この間、北朝鮮は欧州各国とも相次いで国交を結び、欧州連合(EU)首脳代表団の訪問(01.5)を受け、金総書記自ら会談に応じた。この一連の対外的活動は、国家生存に決定的利害を持つ米国、韓国それに日本との交渉を有利にするための布石と見られている。

北朝鮮は、00年6月、韓国金大統領の訪問を受け、次に金総書記の訪韓が半島情勢を占う上で取り沙汰されている。しかし金大中政権の政権基盤の弱体化、テロ国家としての汚名返上の失敗、それにブッシュ大統領が議会の年頭教書(02.1)でイラン、イラクとともに北朝鮮を「悪の枢軸」と決め付けたことで、現時点では、金総書記の訪韓を実現させるための客観的情勢が整っているとはいえないのである。

国家の生存を軍事力で確保しながら、経済改革をどのようにするか、チェチェ思想の真価を問われる段階に立ち至っている。01年秋、「経済管理改革のための指針」を示した金総書記は、「人民の要求と意思を反映した、独創的な、杜会主義原則の確固とした計画経済管理原則の貫徹」を指示(02.7)している。現場の経営責任や効率性を追及すればそれだけ市場経済的要素を加昧しなければならない筈で、この指示で社会主義経済の欠陥が是正されるとは考え難い。改革の成果は未知数といえる。

0281214日9ケ月振りで南北閣僚級会議が開かれた。食料問題、離散家族問題、金剛山観光の活性化問題が討議されて共同文書が発表されている。

北朝鮮は、金゚星内閣参事を首席代表として閣僚級会議に対応したが、未だ顕著な進展は報じられていない。しかし、対話が恒常化したのは望ましいことである。

(2)韓国

982月に就任した金大中大統領(国民会議、後の新千年民主党)は北朝鮮に対する基本理念として穏健な「積極関与」政策(包容政策)を採択した。その背景は、地域の安定に対する民衆の政治感覚といわれている。この時期は、タイ王国の通貨危機(97)で始まったアジア経済危機の真っ直中であって、国内経済は困難な状況にあった。

006月平壌において分断後半世紀を経て、初めて南北首脳会談が実現し、離散家族の相互訪問、南北鉄道連結工事の着手など和解交流の手筈が話し合われた。しかし、その後韓国経済の後退によって、南北経済協力が進展しなかったこと、ブッシュ政権の発足で米朝関係の改善が見込めないこと等で、韓国内保守派を中心に金政権の対北包容政策への批判が拡大することになった。この間、連立与党は選挙で過半数を割り、その上経済も再び停滞し、01年に入ると政権運営はかなり難しい局面に入った。9月には包容政策推進者である林東源統一相が辞任に追い込まれ、連立与党の自民連が解任要求側に回ったことで金大統領の政権運営は窮地に陥った。米国ブッシュ政権とは対北朝鮮政策やミサイル防衛(MD)に関して意見を異にし、米国と北朝鮮との関係修復を仲介する立場になかった。このようなことから01年1月以降南北対話は中断していたのである。

この南北関係の閉塞状況に風穴を開けたのは、024月初旬、金大統頷が前統一相林東源大統領特別補佐役を特使として北朝鮮に派遣したことによるものであった。「最後の切り札」を切った、との見方が大方である。金総書記はソウル訪問と金大統領との再会に期待を述べ、南北報道文(5項目)を公表した。@京義線鉄道と平行道路の連結工事着工、A東海岸(日本海側)での鉄道と道路の連結、B電力支援協議のため経済協力推進委員会の開催(5.75.10)、C金剛山観光活性化当局者会談(6.11)の現地での開催、Dこれらの合意の履行後に閣僚級会談の開催、である。そして、金総書記は日米との対話の再開、米国プリーチャード朝鮮半島和平協議担当特使とクレッグ元駐韓大使の訪朝受け入れ、を明らかにした。また、日本人行方不明者問題の早期解決と日朝関係改善を促す金大統領の期待に応え、日朝赤十字会談の早期開催を約し、日本との対話再開にも関心を見せた。

韓国が軍事当局者会議を提唱(02.7)したのに代えて、86日北朝鮮人民軍と国連軍司令部の将官会議が開かれ、その後、板門店実務調整会議(02.8.13)で黄海砲撃戦の再発防止策が話し合われた。軍関係者間でも話し合う場が設けられた。

 

4.関係周辺諸国

 

(1)中国

中国は北朝鮮の北部と国境を接し、歴史的にも朝鮮民族と深い関係を持つ国である。その上、朝鮮戦争では国連軍の自国満洲への侵攻を恐れ、義勇軍を組織し朝鮮半島で国連軍と戦った。それだけに北朝鮮とは関係が深い。中国は50年代ソ連邦からの援助で順調に国力を伸ばした。しかし、50年代後半、両国関係は悪化し工業立国としての基盤を失うことになった。その上、58年から62年にかけての大躍進運動、66年から10年続いた文化大革命は中国に混乱をもたらし、国力を著しく低下させた。この時期「北朝鮮及び中国の友好・協力及び相互援助に関する条約」を締結(61.7)、そこで「一方が攻撃を受けた時は、他方は全力をあげて軍事的及びその他の援助を与える」として、必要な時にはあらゆる支援を約束している。

隣接する中国が常に北朝鮮の去就に関心を持つにしても、そこには決して勝手な行動は許さない意志を感じ取ることができる。この条約は今でも有効である。78年の113中全会でケ小平副主席は従来の革命闘争路線を否定し、改革・開放路線を提唱した。開放政策では外国資本の積極利用が奨励され、市場経済の導入によって経済の国際化がもたらされた。今ではWTOに加盟するまでになって、主義主張を越えて主要国や周辺諸国との友好を必要とすることになっている。

中国の市場経済導入は、その矛盾について多くの論議がなされた。ケ氏は、ソ連邦

の解体は経済の弱体化に原因があるとみて、経済基盤強化で政権の正当性を確保できると考え「計画と市場とは社会主義と資本主義とを区別するのではなく、公有制を基本的に維持し、共産党が指導するならば社会主義であり、要は生産力を拡大することである」と訴えた。中国は、改革・解放の経済的成果を実地に北朝鮮の金総書記に示し(01.2)、北朝鮮に示唆を与えようとしたが、中国の経験をそのまま踏襲するとは考えていない。

(2)ロシア

91年、ソ連邦が崩壊し名実ともに冷戦は終結した。東側の指導者は、ゴルバチョフ大統領の時代になって、西側の資本主義経済を基盤とする軍事力に対抗するには、東側の経済力ではあまりにも弱く、国民経済を圧迫することを認識した。916月、ロシアにエリツィン初代大統領が誕生し、二代目にはプーチン氏が大統領選挙(00.3)で当選を果たして就任(00.5)した。プーチン大統領は是々非々を明確にする外交を展開し、中国、北朝鮮、中東に対する外交に取組んでいる。特に、米国における同時多発テロ(01.9.11)の対応では、積極的かつ迅速に米国を支援し、国内チェチェン紛争で得たイスラム・テロ情報を提供した上、米軍のアフガニスタン周辺にある独立国家内の展開に仲介の労を取った。

北朝鮮については、イワノフ外相が訪朝し、96年に失効した「ソ朝友好・協力・相互援助条約」に代えて「親善・善隣・協力条約」を締結(00.2)した。ソ()朝条約では、軍事的に自動介入条項があったが、新条約では「一方の国家に対する侵略の危険が生じた場合等には、直ちに接触を持つ」と規定するに止めた。

旧ソ連時代425万人(89)であった兵力は、現在では120万人程度(推定)と言われており、他国の支援に自動的に介入することを約束することはできないのである。012月、プーチン大統領は北朝鮮を訪れ、最新鋭戦闘機の供与、その他の武器供与が話し合われた。しかし、北朝鮮はこれまでの借款への支払いが滞っており、思うように武器の供与を受けることができない状況にあるといわれている。同年8月、金総書記の訪ロが実現した。ロ朝共同宣言では、朝鮮半島での南北対話の継続と米日両国との関係正常化にロシアが支持していることを表明している。近く、ロシアは経済の実態の説明のため、金総書記を沿海州地域に招く予定という。

(3)日本

わが国は、19108月「日韓併合に関する条約」で大韓帝国を併合し、韓国を改め朝鮮と称した。それから第二次大戦で敗北するまでの35年間、日本は朝鮮半島を支配した。その後、50年に勃発した朝鮮戦争の結果、半島には休戦ラインを境として南側に韓国、北側に北朝鮮がそれぞれ独自に建国し、対峙することとなった。日本と韓国との国交樹立交渉は、51年に開始され、14年を経た65年にようやく国交開設のための基本的条項を定めた日韓基本条約が調印された。

ソ連邦をはじめ東側の国々は戦後わが国が主権を回復したサンフランシスコ講和条約に調印することを拒んだため、これらの国々との国交開設には個々の交渉を要した。ソ連邦とは、56年領土問題未解決のまま日ソ共同宣言の締結で、中国とは、72年戦争状態終結と国交正常化を日中共同声明で公表して国交を回復した。日朝間の交渉は909月、金丸、田辺訪朝代表団が朝鮮労働党との間で「早期国交樹立と政府間交渉開始」を決めた共同宣言で開始された。そして、911月末、第1回日朝国交正常化交渉が開始された。最初から、日朝双方ともそれぞれに原則的な立場を主張し合った。例えば「不幸な過去」の精算では、日本側が財産請求権の存在のみを認めたのに対し、北朝鮮側はそれに加えて戦争賠償及び戦後補償を要求した。また、日本側は核査察問題の解決、南北対話の進展などを交渉進捗の条件とし、大韓航空機爆破事件の犯人の日本語教師の身元を照会したのに対し北朝鮮側は強く反発した。

そして、9211月第8回正常化交渉で北朝鮮側は日本側が李恩恵問題に言及したことを非難し、交渉は中断された。その後、0010月までに11回断続的に開催され、またもや拉致問題や過去の補償を巡って双方の主張が平行線をたどり中断した。わが国では、北朝鮮工作員による拉致疑惑が70年代から頻繁に取り抄汰されてきた。4月末、赤十字会談で北朝鮮側はようやく「行方不明者」として調査することを確約した。また最近になって「よど号」ハイジャック事件で北朝鮮に亡命した赤軍派がヨーロッパで日本人拉致に関わったことが明らかになり、亡命者が帰国を希望していることと併せて、この問題の進展は期待できる段階となっている。

731日、プルネイのASEAN外相会議を機会に日朝外相会談が催され、白外相は川口外相に誠意ある謝罪と納得のいく補償を改めて求めている。そして818,19日の赤十字会談、24,25日の局長級会議の開催が約束された。ようやく日朝間の意志の疎通が図られることとなったのである。

 

 

5.関係主要国―米国

北朝鮮はこれまで決して韓国を交渉相手と見ることはなかった。韓国は米国の傀儡であって、北朝鮮が交渉相手とするのは米国であるとの立場を執拗なまでに堅持してきた。韓国を対等と見ようとしないためである。

米国の韓国に対する姿勢は、一貫して民主化を求めた辛抱強いものであった。民衆の意思による民主国家の建設が課題で、軍事クーデター(61)以降、金泳三大統領までの約30年間、軍人出身者が大統領職を占有してきた状況は望ましいとはみていなかった。ところが、軍人大統領の政権下、70年代と80年代に韓国は「漢江の奇跡」と言われるほど工業立国として成功し、経済力を大きく伸ぱして民衆の政治参加意識を高めた。そして、政党出身の金泳三大統領の出現(93.3)を見たのである。米国は冷戦終結後対応すべき脅威を@核兵器等大量破壊兵器の拡散、Aミサイル等その運搬手段の拡散、と見た。932月、北朝鮮の核疑惑で、米国はIAEAの査察を受察させようと臨戦態勢の北朝鮮に対し、米海空部隊は朝鮮半島周辺に展開したのであった。米国は「抑止」と「対処」を軍事戦略の基本とし、抑止のために有効な対処のできる軍事力の保持を目途としている。この北朝鮮の核疑惑に関わる部隊の展開の過程で、わが国が朝鮮戦争当時ほど米軍に対し必要な支援ができないことが判明した。効果的な対処のためには同盟国の十分な支援が、必要欠くべからざることなのである。

この時の経験が「日米防衛協力のための指針」の見直し(97)となり、周辺事態安全確保法(99.5)となって、わが国の協力の範囲を確固なものとした。金日成主席死後3年3ケ月を経た9710月、長男である金正日書記がようやく朝鮮労働党総書記に推挙され、既に再任されている国防委員長とともに名実ともに国家の最高指導者となった。これで米国は責任ある交渉相手を得ることになった。

9910月、クリントン元大統領の政権下、ペリー北朝鮮政策調整官は日韓両国との緊密な協議と北朝鮮、中国を訪問した後「米国の北朝鮮政策の再検討」を公表した。そこでは、北朝鮮の核兵器と長距離ミサイル関連活動を終わらせるため@相互脅威削減の道と、それに応じない場合のA脅威封じ込めの道、の二つの戦略を提示している。

政権発足(01.1)以来、北朝鮮政策を再検討していたブッシュ政権は、大統頷声明(01.6)で北朝鮮との包括的な交渉を再開する基本方針を明らかにした。@北朝鮮の核開発と関連する枠組み合意の履行改善、A北朝鮮のミサイル開発に対する検証可能な規制およびミサイル輸山の禁止、B通常戦力の脅威削減を含む幅広い議題の一括討議、の三項目である。これに対して、北朝鮮は交渉自体を拒否しなかったものの米国の議題設定に反対し、軽水炉建設の遅延を理由に電力補償問題の優先討議を要求した。北朝鮮が南北砲撃戦(02.29)で遺憾を表明(02.7.25)したこと、日韓両国との対話再開に動いていることを評価し、米国はASEAN外相会議で北朝鮮と接触した。15分間であったが、パウエル米国務長官は白北朝鮮外相にブッシュ政権の対北朝鮮政策を説明し、北朝鮮の「遺憾」声明に留意していると伝えた上で、大量破壊兵器の不拡散問題や94年の米朝枠組み合意などについて協議していく姿勢を表明したという。北朝鮮側はこれを歓迎したとの報道がある。

 

6.北東アジア安定への期待

「東アジァの平和と安定の鍵は朝鮮半島の安定にあり、その確立は我々韓国の責任である」、これは韓国を訪問(98.8)した際、韓国高官の発言で、深く感銘を覚えた。朝鮮半島の分断に関わりのあるわが国は、この決意に応えなければならない。朝鮮半島の平和と安定は北朝鮮の去就によると言っても過言ではない。朝鮮半島を囲む周辺の国々は、それぞれに国交を結び、経済的に相互に依存して友好関係にある。北朝鮮だけが国交のない国を持ち、孤立している。その国交のない国には利害の深い韓国、日本それに米国が入っている。この三国とも、これまで北朝鮮を無視してきたのではない。幾度となく国交開設の機会はあった。その機会を失したのは北朝鮮側に責任がある。

その第一は、既成概念に固執することである。独裁国家独特の思考パターンから生まれた原則に固執するためである。交渉相手として米国だけを考え、同じ民族の国である韓国を無視してきた。そのうち、中国とロシアとが韓国と国交を結び、孤立感を味合うことになった。世界の情勢は冷戦の終結で大きく変化したのである。北朝鮮は現実を直視し、これを認める勇気を持たなければならない。

次に、北朝鮮独特の交渉パターンに、理解し難いものがあることである。93年の核疑惑を例にとると、85年に核拡散防止条約(NPTに加盟しながら、国際原子力機関の特別査察を拒み、条約脱退を通告した。米国は条約脱退を撤回させるため、多くの時間と忍耐を要した。米国の忍耐にも限度があり、米国の民衆の意向を斟酌する着意が必要である。

第三に、約束を守る誠実さに欠けることである。軽水炉発電所の建屋着工が実現し、05年半ばには軽水炉の主要部品が持ち込まれる段階になってもIAEAとの保証措置協定を履行する意思が明確に示していない。最後に遅延の理由を相手のせいにする。自己責任についての白覚が欠如している。

第四に、世界の趨勢に対して無関心の行動や発言をすることである。6月は、韓日合同開催のワールド・カップが順調に競技をこなして成功し世界の耳目を集めた月であった。韓国は準決勝まで勝ち進み、三位決定戦で国内が沸きに沸いていた29日、北朝鮮は韓国の警備艇と砲撃戦を交えた。ことの理由はともかくとして、どの国も韓国に同情した。米国は直ちに高官の派遣を取り止めている。事件の時期が悪かったのである。結果として、725日、北朝鮮側が事件を遣憾とすると報じた。このような態度は、これまでの北朝鮮では考えられなかったことである。決して謝罪したのではないと強弁しているが、北朝鮮の和平に対する態度に変化の兆候を読み取ることができる。

一方、関係の深い周辺諸国の北朝鮮に対する姿勢はどうであろうか。ロシア・中国とも機会あるごとに北朝鮮が米・韓、日と正式な国交を結ぶことを望んでいることはこれまで取り上げてきた。両国とも北朝鮮が世界の一員として、相応しい国となり平和のうちに繁栄することを願っているのである。最近の動きとして、729日、プルネイでのASEAN外相会議で、南シナ海での紛争回避問題に加えて、朝鮮半島情勢についても討議された。そして、30日には「南北間対話再開促進歓迎」を盛り込んだ共同声明が発表されたのである。アジア諸国の朝鮮半島情勢に関する関心は深い。そして翌31日、ASEAN地域フォーラム(ARF)の舞台裏で二年振りに米朝外相は僅か15分であったが接触し、相互に基本的な対話の姿勢を確認した。今後の米朝関係の進展が期待できる。同時期、中国唐外柏は川口外相と会談し、中国は北朝鮮が日米韓3ケ国と関係改善するのを支援する旨、言明している。

また、川口外相は白北朝鮮外相と会談、国交正常化交渉再開にむけて8月中に局長級協議と赤十字会談の開催、局長級協議では赤十字会談で話し合ってきた拉致問題を取り上げることで合意した。北朝鮮のこの急激な対外姿勢の好転は、これまで対応に期待と落胆、希望と絶望の紆余曲折を経験してきた関係国としては素直に喜べないところもあるが、周辺国、関係国は北朝鮮が地域の一員として安定し、繁栄することを望んでおり、間違いなく問題は解決する方向に向かっているものと思う。東アジアの未来には希望が持てるといえよう。

 

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