日米同盟関係の根本問題―1

           

                                 DRC研究委員

杉山徹宗

はじめに

 日本の歴代首相が米国ワシントンを訪れるたびに、米国大統領は「日米関係ほど重要な2国間関係はない」とまで持ち上げるが、日本人は、それが単なる外交上のリップサービスであるとしか考えていないし、米国一般人も米国政府のようには考えていないであろう。

 21世紀の世界に、日米両国が平和と安定そして繁栄に貢献しようとするのであれば、やはり、世界第1と第2の大国が真の同盟関係を構築して行かなければならないと考える。そのためにも、両国民が誤った認識をいつまでも抱くことは、決して両国の友好関係を築くことにはならない。特に日米関係で主導権を握っている米国人の対日認識は、早急に改める必要があると考え、ここでは3つの事例を取り上げることとする。

 

1.米国人の対日誤解認識

 

(1)自爆テロと神風特攻隊とを同一視

   9.11テロが米国で発生した時、ブッシュ米大統領は「これは米国に対する戦争だ、アメリカ本土が攻撃されたのは真珠湾以来のことだ」と述べた事は記憶に新しい。米国の中枢部に仕掛けたテロ行為と、日米戦争の発端となったパールハーバー事件と同一視点で捉えたこの認識は、実は米国民一般に共通したものである。だが、この認識がある限り、真の日米関係は構築されないのではなかろうか。つまり親日派とも言えるブッシュ大統領でさえも、実は日本人のことを何も分かっていないと言えるからである。               

第1に、自爆テロや神風特攻隊のような、自らの命を犠牲にした攻撃をしてのける精神と、それを賛美する精神の質が米国人には全く分かっていない。(キリスト教から見れば)訳の分からない宗教で武装したオリエントの未開で野蛮な連中が、高度な西洋文明世界に対して、卑怯な奇襲攻撃をかけた、という認識である。ビン・ラーディン一派の自爆テロに対して、「真珠湾以来」という言葉が思わず出たのは、米国人が依然として55年前の認識を日本人に抱いていることを露呈した。

第2に、米国人が分かっていないのは、イスラムの自爆テロと、神風特攻隊が同じ性質のものと見ていることである。神風特攻隊が米艦隊に突入したのは、国土・祖国防衛のためであり、戦争とは無関係な人間を乗せて米国の民間施設に突入するなど有り得ないのである。イスラムの自爆テロとは異なり、特攻隊のメンバーは、故郷の両親,家族,恋人,友人に手紙を書いているが、その文面に表れているのは、日本という国土・祖国の運命と自らの命を引き替えに出撃することへの思いであり、そのために恥ずかしい死に方をしたくないという美意識である。

かつて日本のTV番組でも報道されたことであるが、終戦の詔勅が出された後、沖縄の米軍に向けて出撃した最期の特攻機は、目前に迫った米軍キャンプに突入しようとしたが、終戦となり何の防備もせずに灯りを燈して談笑しているであろうキャンプを見て、咄嗟に操縦機を旋回させ、はるか離れた岩礁に突入して自爆した事実がある。護衛監視役の戦闘機に突入を告げた後の行為であった。この特攻隊員にして見れば、もはや戦争が終わり平和を回復した軍隊に対して突撃することは卑怯な行為と考え、恥かしい死に方を避けたからである。

(2)危険な絶対的正義感に基づく権利行使

   第3に、米国はテロにおける大量無差別殺戮を非難しておきながら、戦争における大量無差別殺戮を否定していない点である。米国人やビン・ラーディンの論理では、絶対的な正義のためには無関係な人の命が奪われても構わないという認識であろう。米国の場合には国際社会で認められた主権国家が、政治的に認められないテロリストに対する攻撃は、政治的権利の正統な行使であるから、いわば正義であり、空爆の犠牲になった人の場合には仕方がないという倫理観である。絶対的正義の下では、無辜の民を巻き添えとした原爆投下も東京大空襲も、朝鮮戦争やヴェトナム戦争あるいはアフガン戦争での無差別空爆や誤爆も許されるという認識である。そのうえ、白人国家である米国の場合には、自分達よりも文明度も価値も低い民族に対しては、その命は貴重ではないとなる。アメリカ・インディアンの大量殺戮や、黒人奴隷という差別的制度も、また第2次大戦時、日系人のみが強制収容所に収容され、ドイツ人もイタリア人も収容されなかったことを見れば明らかである。  

同様に、ビン・ラーディン一派のテロリスト達も、イスラム原理主義という硬直化したイデオロギーを絶対的正義という倫理観で包んで、世界80ヵ国以上の人々が居た世界貿易センター・ビルを破壊したのである。

   さて、紙面の都合上、全ての事例を述べることは出来ないが、ここでは、日米同盟関係をより一層強固とするために、米国人に是非理解して欲しい事案を3つほど記述しておきたい。それらは、第1に、満州事変(1931年)の調査に関連して米英ソ3国が対日陰謀を企てた密約に関するものであり、第2に、パールハーバー事件より5ヵ月も前に米国大統領が対日奇襲攻撃を実施する計画にサインをしていた事実、第3に、パールハーバー事件を事前に米国政府が知っていたにも関わらず、日本を無理やり戦争に引き込む謀略を行なったとする資料についてである。

 

2.リットン報告書とARA密約

(1)中国の利権獲得に異常な関心を示した米国

   192911月に始まった世界経済恐慌は、資源や市場を国内外に沢山保持していた米英仏など「持てる国」と、日独伊など「持たざる国」の位置を浮き彫りにさせた。特に日本の場合には、南方へ進出しようとする道を1921年のワシントン海軍軍縮条約で、米国に阻止されたために、大陸、とりわけ日本が日清・日露の両戦役で、多くの犠牲を払って獲得した満州地方に、その活路を見出そうとしていた。武力を直接的に投入して満州の利権を確保しておきたい関東軍首脳と、国際社会から孤立することを恐れ、できるだけ外交交渉によって権益確保を狙おうとする政府首脳の考えは一致しなかった。但し、満州の権益をなんとか確保して日本の活路としたいとする気持ちは、国民も含めて一致していた事は事実である。

 1920年代から1930年始めにかけて、中国の蒋介石政権は、各地に散る軍閥を征圧しつつ、統治の及ばなかった満州地方にも迫ろうとしていた。これに危機感を抱いた現地関東軍首脳は、政府の外交交渉を待っていたのでは、間に合わないとして単独で1931918日に、満鉄を爆破(柳条溝事件)し、これを張学良率いる軍閥の責任として、関東軍を投入した。いわゆる満州事変の勃発である。わずか3ヵ月間で満州全域を占領し、翌年1932年3月1日には、満州国を建国した。

   蒋介石政権は爆破事件が発生してから3日後に、国際連盟(以下、連盟と呼ぶ)に緊急提訴したが、米国の国務長官ヘンリー・スティムソンも4日目に声明を発表し、日本に対して重大な関心を寄せている旨通告してきた。他の列強諸国はずっと沈黙を守っていたにも関わらず、米国だけが直ちに反応して来た。

   何故、米国が中国に関心を抱いたかと言えば、既に米国は1880年の時点で世界1の経済大国になっていたが、過剰生産品を売り捌く海外市場がなかった。この為、1899年には中国の門戸開放政策を宣言し、中国市場に割り込もうとしたが、日清・日露の戦争によって満州に特殊権益を確保した日本の登場により、米国は日本が中国市場を独占してしまうのではと恐れたからである。

(2)国交の無い米ソが満州権益をめぐって秘密交渉

   提訴を受けた連盟では、先ず1015日の理事会で、日本の反対を押し切って非加盟の米国をオブザーバーとして招請することを決定した。311218日、総会において日本と中国の紛争調査委員会を設置し、現地へ国際調査団の派遣を決議した。メンバーは英独仏伊の4ヵ国代表と、前記米国代表であった。各国代表者は以下の通り。英:リットン卿、仏:クローデル陸軍中将、独:シュネー博士、伊:アンドロバンディ伯爵、米:マッコイ陸軍中将の5名である。また各国の随員は1国につき最高13名までとし、タイプライターを打つためのタイピストを8名とした。この結果、総計では53名ほどで調査団を構成し、32229日、横浜に上陸して日本首脳と会談したのを皮切りに、上海,南京,北京と移動し、4月21日には満州・奉天に到着した。一行は奉天,新京,ハルビンと調査を進め、5月16日には米国代表を除いて牡丹江へと向かった。

   ここで重大な動きが現れる。牡丹江へ出発する直前、ソ連の陸軍大佐アレクセーエフ・イワノフ(GPU極東部長)が、リットン卿と一行の滞在ホテルで1時間に亘って密談をおこなった。さらに5月22日、ハルビンに滞在している米国代表マッコイ少将と、ソ連イワノフ大佐が3時間に亘って密談をしたが、会談後、イワノフ大佐は牡丹江を経てソ連領ウラジオストクへ向けて出発した。当時、ソ連はヴェルサイユ体制の中から創設された国際連盟を批判し、これには加盟していなかった。しかも米国はこの時点では、ソ連と国交を回復しておらず、ソ連を承認するのは1933年である。にも関わらず、ソ連からの使者が国際連盟や米国の代表者と密談を行なった。

   リットン調査団の動静を探っていた日本外務省の嘱託・三浦幸介は、ホテルから出て列車に乗ったイワノフ大佐がしっかりと持っている鞄が、自らの手に鎖で繋げてあるのを見て、重要資料と睨み、列車の進行中にイワノフ大佐を襲って鞄を強奪した。果たして、その中には分厚い書類が入っていたが、1つはリットン卿が国際連盟に正式に提出する報告書で、これには満州建国が日本の官憲によって行われた為に、満州国の現政権を認める訳にはいかないことを述べるとともに、解決の条件として、日本の満州における利益の承認、日支両国間で新条約を成立させること、満州の自治など、10項目が記されてあった。

(3)ARA(アングロ・ルッソー・アメリカーナ)の密約  

この公式に発表される報告書に関する限り、決して日本にとって不利な内容ではなかった。それにも関わらず、日本は翌33327日連盟に脱退通告を送って脱退した。何故なのかという理由は、同じ鞄の中にあったARA文書にあった。それは日本がリットン報告書を受け入れた場合の英米ソの「秘密協約書」であった。

先ず、米国と英国の秘密協約書の草案は、@満州の宗主権は中国にあることを認めるが、その支配は国際共同管理委員会に委譲する。A満州における日本の特殊権益は認めるが、駐兵権は国際共同管理委員会の決定による制限を受ける。B日本は満州における権益を他の1国に譲渡出来るが、その場合は国際共同管理委員会における全ての地位を失う。そして、C国際共同管理委員会が満州において行なう行政は、奉天省は米国、吉林省は英国、黒龍江省はソ連、熱河省は仏,独,伊の3国で行なう。Dこの協約の内容および存在は、一切公表せず、その秘密を厳守する、となっていた。

次に米国とソ連の秘密協約書は、@ソ連が分担する黒龍江省の一般行政管理は、米国がソ連を承認した後一年以内に、無条件で米国に委譲する。Aソ連が当該紛争地に保有する東支鉄道の敷設権および運営に関する一切の権益を、双方が合意した値段で米国に売却する。B上記2項の代償として、米国は可及的速やかに、ソ連を正式国家として承認し、関税の最恵国待遇を約束する、となっていた。この草案を読んだ三浦幸介は驚嘆し夜に日をついで、松岡全権大使に届けようとしたが、もう少しで日本行きの船に乗るところで、関東軍に怪しまれ逮捕されてしまった。この文書を見た石原莞爾や板垣征四郎達も驚嘆したが、この文書を決定的な瞬間に出そうと考え、そのまま沈黙をし続けた。関東軍にすれば、折角満州事変を起こして軍部の権益を確保したのに、国際共同管理委員会の手に委ねてしまっては、関東軍の出る幕はなく、外務省だけに表舞台で活躍されてしまうと考えた。それならば、政府がリットン報告書を受託しようとする直前に、これを政府に突き付ければ、政府としては連盟を脱退せざるを得なくなると計算した。そうなれば、満州の支配・管理は関東軍の思うまま、という計算をしたのである。

(4)国際連盟の脱退はARA密約を阻止するため

事実、333月の連盟総会開催直前まで、関東軍はこの文書を仕舞って沈黙を守っていた。政府の元老(西園寺公望と牧野伸顕)としては、日本を国際的孤立に追い遣ることは不利とみて、報告書が日本の権益を認める限りは、これの受託をやむを得ないと考えていた。ところが、総会開催の直前になって、満州から板垣征四郎が西園寺邸を訪れ、このARA秘密協約書を披見したのである。驚愕した西園寺と牧野は結局、ジュネーヴの松岡に対し連盟脱退を指示した。

この秘密文書は、1957年に米国で一般公開される筈であったが、当時の大統領アイゼンハワーは、この秘密文書の重要性に鑑み50年間の公開禁止処分としてしまった。この文書が日の当たる場所に出て来るのは、2007年の予定である。

余談ながら、全権大使の松岡洋右は、連盟総会において有名な「十字架上の日本」という名演説を残した。それは「日本は満州国を作ったが、東洋平和のためになんとしても必要なものであった。今は理解されなくとも30年後、50年後の世界は日本の行動が正しかったと評価するであろう。日本はあたかもキリストと同じように十字架に架けられようとしている。しかし、キリストがその後、ヨーロッパ社会から認められたように、いつかは日本も認められるであろう。我に罪なし、されど甘んじて十字架に架けられん。」というものであった。謀略を行なった諸国は、キリスト処刑になぞらえた演説の裏には、日本に連盟脱退の意図なしと判断し、安堵の思いを込めて、この演説に対して万雷の拍手を送った。

 

3.ローズベルト大統領の日本爆撃計画

 

(1)中国支援計画書

日本海軍機が米国のハワイ・真珠湾を攻撃したのは、1941128日であるが、実は米国大統領ローズベルトは、日本海軍が真珠湾を攻撃するより5ヵ月も前に、正確には138日も前に日本本土爆撃計画書に許可の署名をしていた。この公文書は「JB355号」と呼ばれるもので、当時の米国統合本部(JB)と大統領補佐官らが計画した97ページにものぼる「中国支援計画遂行書および許可書」である。

日本と中国国民政府は、37年7月に蘆溝橋で衝突して以来、全面戦争に突入していたが、中国軍は日本軍に連続して敗戦を喫し、1940年に入ると中国軍は内陸部へジワジワと撤退を余儀なくされていた。蒋介石は4010月、駐中国米国大使のネルソン・T・ジョンソンに会談を申し入れ、中国軍の窮状を訴えた。特にこの年、日本海軍が新たに投入した零式戦闘機は、航続距離が長く、内陸奥深く重慶にまで陸軍の爆撃機を援護して飛来し、中国空軍は壊滅状態にあった。このため中国軍の士気は低下し経済も崩壊の危機にあること、その間隙をぬって中国共産党が勢力を伸ばそうとしていること。それゆえ、なんとしても米国の大規模な援助を必要とする旨を訴えた。ジョンソン大使は大統領に蒋介石の要請を伝えたが、同じ時期中国からワシントンに到着した中国空軍顧問のシェンノート大尉は、中国からの要請を米国統合本部に持ち込んで、検討と計画案を作成し始めた。

(2)ニューディール政策の行き詰まり           

一方、世界経済恐慌の発生以前から、巨大人口を擁する中国市場を確保しておきたい米国にとって、座視していたのでは中国全域を日本に征圧されてしまうと危惧していた。さらにニューディール政策によって、37年度の米国の国民総生産は904億ドルと回復し、失業者数も1283万人から770万人へと減少していた。ところがローズベルト政権は、前年に経済が回復基調にあると見て、大企業優先政策から労働者権利の保護を目指した「ワグナー法」を制定し、福祉政策などを実施した。このため、1938年には再び国民総生産は減少し、失業者数も一気に1037万人へと増大した。                    

これを見てローズベルトや財界関係者は、失業者を救い景気刺激策をするには、軍需産業の活性化が最適と考えたが、米国人はヨーロッパやアジアの国際情勢には、関心を示さなかった。ローズベルトにすれば、米国経済の回復には、米国が軍事紛争に巻き込まれる必要を感じていた。それでも1934年に日本がワシントン海軍軍縮条約の破棄を米国に通告すると、米国も直に「第1次ヴィンソン海軍拡張法」を議会で可決し、100隻の艦艇と多数の航空機生産に乗り出した。

(3)対独参戦の口実と中国からの日本排除

それでは「JB355号」の内容はどのようなものであったのであろうか。計画書によれば、350機のカーチスP40戦闘機が、150機のロッキード・ハドソン爆撃機を護衛して中国本土を飛立ち、日本本土を爆撃しようとするもので、実施時期は1941年9月を目標としていた。実施される場合の航空機,燃料,弾薬その他の資材は全て米国が用意するとともに、全て米国の予備役士官が操縦し、総指揮は米陸軍退役士官のクレア・リー・シェンノート大尉が行なうことになっていた。そして使用される航空機には、全て中華民国空軍の識別マークと、晴天白日旗をつけて日本へ向かうというものである。

この計画を推進したシェンノート大尉は、1937年に米国陸軍航空隊に見切りをつけて退役したが、蒋介石総統が彼を中国空軍の訓練にあたる軍事顧問として招請したため、37年5月に日本を経由し上海に到着した。シェンノートは蒋介石夫妻から信頼され、同年9月には中国空軍の全ての作戦と、訓練の全権を蒋介石から委ねられたのである。

この文書に書かれた計画によれば、日本本土爆撃は3段階に亘って行なわれるとして、詳細に手順を決めている。戦術目標としては、中国雲南省からビルマに至るビルマ公路の防衛であり、戦略目標としては日本本土の工場地帯を爆撃することで、日本の国力を弱体化させ、さらに本土を爆撃することで日本国民の戦意を喪失させると共に、日本軍を分断させる、という壮大な狙いを持っていた。

大統領がJB355号計画案に許可の署名を行なった19417月の段階は、欧州ではフランスがドイツに降伏し、英国はドイツの空爆によって国力を衰退させ、ソ連はドイツとの戦争に備えていた時期であった。既に中国の沿岸地域は殆ど日本軍に占領されており、日本爆撃のために利用出来る空港は全て日本軍の制空権下にあり、この計画は流れることになった。

この大統領が署名した公文書は、1999年(平成11年)7月に、米国アリゾナ大学歴史学科のシャーラー教授によって発見され、新聞報道された。日本海軍によるハワイ真珠湾攻撃より5ヵ月も前に、中国機に変装して日本を攻撃しようとしていた米国の謀略は、今からでも世界に公表するべきであろう。その勇気が米国人の対日認識を変えると共に、日本人も対米不信感を払拭するからである。

                              

4.       仕組まれたパールハーバー

 

(1)スティネット記者の15年間の調査報告

 1941128日、南雲忠一中将に率いられた、31隻からなる日本帝國海軍の機動部隊は、米国準州であるハワイのパールハーバー軍港にある米海軍の艦隊に、航空攻撃をかけた。真珠湾攻撃を切っ掛けにして、米国は対日戦のみならず欧州での対独戦にも参戦することになったのは周知の事実である。

   真珠湾攻撃については、戦前から米国による罠ではなかったか、と言う疑惑は多くの資料から推測され、これまでに60数冊が刊行されている。ところが、元米海軍軍人で戦後「オークランド・トリビューン紙」の記者をしていた、ロバート・B・ステイネット氏が、15年間をかけて米海軍本部の地下金庫に眠る膨大な資料や記録を、「情報の自由法」を楯に執拗に政府に申請し、ついに機密文書指定を解除させ閲覧したことから、真相が明らかとなった。即ち、過去60年間に亘って合衆国の暗号解読員達は、19425月まで日本海軍の主要暗号を解読出来なかったという定説を、完全に否定して19402月には既に日本の外交・軍事暗号を解読していたのである。

 1940年夏の米国における世論調査では、米国民の大多数は米国がヨーロッパの戦争に巻き込まれることを望んではいなかった。しかしローズベルト大統領と側近達は、もしもドイツが欧州で勝利を収めた場合、米国の安全保障は大きな脅威にさらされる、という点で一致し米国が欧州支援のための行動を起こすために、米国民への呼びかけの必要性を感じていた。

(2)マッカラム海軍少佐の提言を採用した米大統領

   ローズベルトと同様の考えで米海軍省に勤務していた人物に、海軍情報部(ONI)極東課長アーサー・H・マッカラム海軍少佐がいた。マッカラムは宣教師の両親のもと明治31年に長崎で生まれ、少年時代を日本の諸都市で過ごし、英語よりも日本語の方が堪能と言われた。18歳の時、米海軍兵学校に入学し、卒業と同時に駐日アメリカ大使館付き海軍武官となって来日した。マッカラム少佐は、日本との戦争は不可避であると認識しており、このため米国にとって都合の良い時に、日本を挑発し日本から仕掛けてくるよう考え、194010月7日、5ページからなる覚書「戦争挑発行動8項目」を作成し、大統領が最も信頼する2人の軍事顧問(ノックス海軍大佐とアンダーソン海軍大佐)宛てに提出した。

   その8項目とは以下に掲げるものであるが、ローズベルトはこれを外交政策の基本に据えて対日政策を推進していくことになる。

@    太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用について英国との協定締結。

A       蘭領インドネシア内の基地施設の使用および補給物資の取得に関するオランダとの協定締結。

B       中国の蒋介石政権に可能な、あらゆる援助の提供。

C       遠距離航行能力を有する重巡洋艦1個戦隊を、東洋,フィリピンまたはシンガポールへ派遣すること。

D       潜水戦隊2隊の東洋派遣。

E       現在、太平洋のハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること。

F       日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう主張すること。

G       英帝國が日本に対して押しつける同様な通商禁止と協力して行なわれる、日本との全面的な通商禁止。

である。194011月以降、米国の対日軍事・外交政策は、マッカラムの覚書に沿ったものを次々と具現する形で実行されて行った。当時の米国政府や軍部内で、マッカラムほど日本の政府や国民そして軍部を知悉していた人物は殆どいなかったと言ってよいであろう。まさに日本に対する戦争挑発行動が着実に実行に移されていった。

   さらに米国の対日政策を的確にさせたものに、通信傍受と暗号解読班の活躍があった。米国は既に1907年に対日作戦計画として、オレンジプランを作成していたが、これに沿って日本政府の通信傍受作業を続けてきた。1921年から2年にかけて行なわれたワシントン海軍軍縮条約において、日米英3国は主力艦の保有率をめぐって熾烈な外交を展開したが、既に米国は日本と英国の外交電報を事前に解読し、日本政府の意向を知って外交交渉を行なっていたのである。会議終了後、この事実を知った日本政府は、幣原喜重郎外相が米国に強く抗議をしたが、後の祭りであった。

(3)日本の外交・軍事電報を傍受・解読した米国の25

 ともあれ、1941年の初頭には無線傍受は太平洋を囲むようにして、25ヵ所に設置されていたが、この中には日本の軍事暗号と外交暗号を解読した4ヵ所の暗号傍受解読局と、事実を認めた責任者が含まれていた。その4ヵ所とは、オアフ島にあるホーマー・キスナー通信上等兵曹(オアフH局通信解析主任)、ジョセフ・ロシュフォート少佐(真珠湾無線監視局・HYOP局長)、フィリピン・コレヒドール島のデュエイン・ウイットロック通信一等兵曹(フィリピン無線監視局・CAST勤務)、さらにシアトル近郊に設置したSAIL無線監視局であった。

   25局あった通信傍受施設のうち、12局は日本海軍の通信を、4局は日本陸軍の通信を、そして残りは日本政府からの外交暗号電報を傍受していた。既に1938年から真珠湾攻撃時期まで含める4年間で、146万通の日本軍の無電を傍受し、65名の電信員たちが傍受を続けた電報記録および別の無線傍受日誌に、これらの記録がファイルされている。これらは今なお米国の最高機密文書に指定されていて、ステイネット記者も閲覧することは出来ていない。

   もちろん、開戦8ヵ月ほど前の1941327日に日本領事館員を装って、豪華客船・新田丸でハワイ領事館に着任した森村正(本名・吉川猛夫海軍少尉)の動静は、全て逐一監視され、彼が開戦まで日本外務省の「津暗号」を使用して送り続けた諜報は、全て米国側が傍受のうえ解読をして国務省と海軍省に報告されていたのである。

   19411126日、米国務長官・コーデル・ハルが、日本政府に突きつけた最期通牒に対する日本側の反応も、細大漏らさず米国側は入手していた。即ち、エトロフ島ヒトカップ湾に集結を終えていた日本海軍機動部隊の動静と、御前会議の結果によるハワイ真珠湾に向けてヒトカップ出撃の模様も、全て把握していたのである。

(4)逐一、把握されていた日本艦隊の動静

   戦後、日本海軍南雲艦隊は攻撃までは完全な無線封止を行なっていたという、日本側および米国側の発表にも関わらず、キスナーとウイットロックはステイネット記者とのインタビューにおいて、ヒトカップ湾から出た機動部隊が真珠湾攻撃を終えるまでの約13日間に、機動部隊や東京から129件の傍受電報があったことを示し、それの内容も提示した。それらをステイネット記者は7つに分類しているが、それによると、

  @南雲司令長官発信の電報         60

  A東京から機動部隊の艦船宛て電報     24

  B空母発信の電報             20

  C航空戦隊司令官発信の電報        12

  D第1航空艦隊の空母以外からの電報     8

  Eミッドウエー破壊部隊からの電報      4通

  F航空戦隊司令官あて東京からの電報     1

                     合計129

となっている。つまり、無線封止を厳しく命令している筈の機動部隊指揮官自身が、最もおしゃべりな人物であったことも分かっている。無線封止を破った理由はヒトカップ湾を出て2日後に、アリューシャン列島南方にいくつかの低気圧が発達しながら機動部隊を襲い、31隻からなる大部隊が散り散りばらばらとなってしまった為に、出力を下げて打電された。それでも米国の傍受施設は確実にこれをキャッチし、南雲艦隊が刻一刻とハワイに接近しつつあることを、ホワイトハウスに送り続けていた。

   ところがローズベルト大統領もハル国務長官も、そしてワシントンにある海軍省の作戦部長であるハロルド・スターク海軍大将も、こうした事実をハワイの米国太平洋艦隊司令長官であるハズバンド・E・キンメル海軍大将には、伝えようとはしなかった。明らかに、日本に先制攻撃をさせて、米国民を戦争に立ち上がらせる舞台の主役を日本海軍に仕立てるべく、胸を躍らせて待っていたのである。まさに卑怯な囮であり罠であった。

   パールハーバー事件後、ハワイ防衛の責任を取らされてキンメル大将は解任されたが、1995年になって米国政府は、彼に知らせなかった事実を認め、謝罪と名誉回復の措置を取った。キンメル大将の名誉は回復されたが、日本国家と国民に与えられ続けている「卑怯,野蛮」という不名誉は回復されていない。

 

 おわりに

  以上、ここでは3つの事例を掲げたが、次では別の事例を掲載したい。いずれにしても、上述3点について、米国政府は早急に事実関係を確認した上で、日本に対し公的な謝罪とともに、米国内で使用されている歴史教科書の書き直しと、米国民に対しても事実を正確に伝える必要があろうかと思う。さもなければ、米国一般の国民は依然として対日不信感を抱き続けるであろうし、教科書の誤りを今すぐ是正しても、その効果は今後30年から50年経たたなければ現れないからである。第2次大戦中の在米日系人を強制収容した件について、米国政府は既に公的に謝罪し補償まで行なった。そうした米国政府の勇気に対して尊敬の念を抱く日本人は多い。

参考文献

ロバート B.スティネット、妹尾作太男監訳、『真珠湾の真実』、文芸春秋,20016

池上金男、『幻の関東軍解体計画』、祥伝社、19894

呉 善花、「アメリカには見えていない世界」、『日本文化』、拓殖大学日本文化研究所、20021

黄 文雄、『満州国の遺産』、光文社、20017

杉山徹宗、『大国の外交戦略史』、鷹書房弓プレス、199812

杉山徹宗、『英米の興亡と日本の戦略』、鷹書房弓プレス、19891月 産経新聞、

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