明治海軍と変革
―日本海海戦勝利への創造と改革―
(財)DRC研究委員
1.まえがき
日露戦争は、超大国帝政ロシアの極東進出の脅威に対して、明治開国以来37年の発展途上にあった日本が、国家国民の総力を挙げて戦い、辛うじて勝利し、国家の安全と国益を守り抜き、ロシアの継戦意図を挫く事に成功した戦争であった。この戦争の帰趨を決定づけた海戦が、「日本海海戦」である。進取の気質に富む明治海軍の軍人達の自由闊達な発想と創造が、急速に変化する世界の情勢を洞察し、時代を先取りすることによって大勝が得られた。米欧の中国侵略を目の当りにした日本国民が、「次は日本」という危機感を募らせたことは否めない。1890年、時の首相山県有朋の「外交戦略論」に言う「日本の独立自衛のために主権線の防御と利益線の防護」の必要性の主張は、朝野の世論に大きく影響し、明治国民の目標を一つに収れんし、共有することになった。この主権線・利益線論は、国土即ち日本の領土領海の主権を行使すべき地域海域(主権線)を断固自衛し、主権線の安全に密接に関係のある隣接地域海域(利益線)を積極的に防護しなければならないということであった。この戦略論は、日露戦争における国民的結束、特に、国民の日本周辺海域の安全と日本海軍に対する関心を呼び起こした。ここでは、日露戦争における両国海軍の熾烈な戦いであった日露海戦、取り分け黄海海戦及びその後僅かに9ヶ月後の日本海海戦に注目し、その間に行われた日本海軍の創造的な活動とその成果に焦点を絞って、明治海軍の軍人達の創造と変革の過程を分析する。
2.日露海戦の経過
(1)黄海海戦の経過
日露戦争は、1904年2月に開戦となり、同年8月黄海海戦、1905年5月の日本海海戦を経て、10月の講和条約締結に至る1年8ヶ月の戦争であった。日本海軍の作戦方針は、奇襲と分散戦力の各個撃破によりロシア太平洋艦隊の速やかな撃破を行い、ロシア本国から派遣される艦隊を全力で迎え撃ち、日本本土と朝鮮半島の間の海上交通路及び周辺海域の安全を確保することである。
日露戦争は、1904年2月9日の日本艦隊による旅順港奇襲攻撃で始まった。数回の小海戦を経た後の同年8月10日、ウイットゲフト少将率いる旅順艦隊(戦艦6,巡洋艦4,駆逐艦8)が、旅順港を出撃した。ロシア艦隊の目的は、ウラジオストック回航が目的であり、日本艦隊の撃滅ではなかった。連合艦隊東郷司令長官は、警戒監視のために分散していた部隊の集中を命じると共に、直卒の第1艦隊(戦艦4、巡洋艦2)でロシア艦隊の進路に向かい、敵の退路を断つべく運動、一挙撃滅を狙って砲戦しつつ追跡し、かねての計画通りT字戦法に持ち込もうとしたが、ロシア艦隊の巧みな艦隊運動のために効を奏することなかった。戦勢の好転の兆し無いままに日没が迫った時に、戦艦三笠の撃った「運命の一弾」が旗艦ツエザレウイッチの艦橋に命中し、ウイットゲフト司令官以下の艦隊首脳を倒した。取り舵にとったまま操舵員が倒れたために旗艦は左に急旋回し、このためにロシア艦隊は陣列を乱し、日本艦隊の集中攻撃を容易にした。ロシア艦隊は大打撃を受けながらも、夜間の水雷戦隊の攻撃をかわして旅順に引き返した。この黄海海戦でロシアは、戦艦1、巡洋艦3、駆逐艦5を武装解除等で失い、目的であるウラジオストック回航を果たせず、ますます旅順港からの出撃に消極的になった。乃木司令官率いる陸軍第3軍の総攻撃を持って、12月5日に旅順港を一望できる二○三高地を奪取し、12日までにロシアの艦隊を尽く撃沈、1月2日に旅順要塞が陥落した。連合艦隊は、直ちにバルチック艦隊を迎え撃つ準備にかかるとともに、作戦計画通りに作戦が運ばなかった失敗の教訓の分析と改善改革を促進しなければならなかった。
(2)日本海海戦の経過
ロシア参謀本部は、1904年4月バルチック艦隊を新編し、ロジェストウエンスキー中将を指揮官に任命して、10月中旬リバウ港を出港させた。さらに参謀本部は、老朽戦艦等12隻を持って艦隊を編成し、ネボガドフ少将がこれを率いて1905年2月上旬に出港した。老朽かつ遅速の艦隊を旅順艦隊の代わりとして派遣した当時のロシア軍上層部の無責任と事なかれ主義は、結果において日本に利した。1905年4月上旬にロシア艦隊のシンガポール沖通過を知った日本艦隊は、朝鮮海峡に艦隊を集中し厳戒態勢を敷いたが、以降ロシア艦隊の消息が不明になり、日本国内、国民こぞって不安と焦燥の色を濃くした。5月27日0230、五島列島西方で哨戒中の仮装巡洋艦信濃丸がロシア艦隊を発見、次いで巡洋艦和泉が同艦隊を触接して、艦隊の位置、進路、速力、陣形等の敵情を無線通信で報告し続けたことで、連合艦隊司令部はロシア艦隊の動静を正確に把握することができた。0600頃には連合艦隊は加徳水道を出動し、1200頃に沖ノ島北方海域に進出して、北上するバルチック艦隊を待った。1339艦隊の南西方向13,000mに2列縦隊のバルチック艦隊を発見、左舷反航の対勢で接敵し、1405敵との距離8,000mで左大回頭を実施した。ロジェストウエンスキー中将は、眼前で大回頭を始めた日本艦隊に対して1408砲撃を開始した。日本艦隊も、回頭を終わり定針して1410距離6,400mで射撃を開始した。5時間に及ぶ戦闘でロシア側は戦艦6隻のうち5隻沈没、1隻大破し、他の艦艇も大きな損害を被った。ネボガドフ少将は、昼戦の第1次海戦で残った艦艇を集め、北上を開始した。第2次海戦は、夜間の暗黒の海に日本の駆逐隊・水雷艇隊40隻余が襲撃を行い、4時間の魚雷攻撃でロシア戦艦2隻、装甲巡洋艦2隻が沈没し、他の艦艇も四散した。日本海軍の魚雷襲撃が初めて効を奏した海戦であった。28日払暁、ネボガドフ少将が率いる戦艦4隻、巡洋艦1隻は、日本艦隊に降伏した。我が駆逐艦2隻は、欝陵島南西で哨戒監視中にロシア駆逐艦2隻を発見追跡し、重傷のロジェストウエンスキー中将と幕僚を捕虜とした。
この海戦の勝利で、わが国は、日本海・東シナ海の海上交通路が確保されて満州で戦っている日本軍の継続的な支援が容易になるとともに、ロシア軍の日本に対する渡洋侵攻の可能性は無くなった。また、この海戦の結果が米国を仲介として日露講和会議の契機となり、10月15日にポーツマスにおいて条約の締結を見ることになった。
3.黄海海戦の反省
日本海海戦の大勝の原因を語るときには、黄海海戦とその後9ヶ月の変革の経過を見る必要がある。日本にとって黄海海戦は、ロシア艦隊が旅順を出てウラジオストックへ回航すると言う戦略目的を挫き、大きな損害を与えたとは言え、旅順に逃がしたことは、旅順港外での継続監視を強いられ、バルチック艦隊の迎撃準備に支障を来すことにもなり、十分に目的を達したものではなかった。
(1)集中できなかった部隊戦力
編成上の失敗で兵力の集中が出来なかった。8月10日、第2戦隊(装甲巡洋艦4)は、ウラジオストックの3隻の装甲巡洋艦に備えるために朝鮮海峡にあった。東郷司令長官は直卒の第1艦隊第1戦隊(戦艦4、装甲巡洋艦2)及び第3戦隊(装甲巡洋艦2、防護巡洋艦3)をもって、旅順艦隊(戦艦6等)との海戦に臨んだ。しかし、第3戦隊は、戦力発揮を防護巡洋艦並に合わせざるを得ず、決戦兵力としての装甲巡洋艦の発揮が制約され、旅順艦隊に対する戦力は、第1戦隊のみの戦力で対峙せざるを得なかった。六六艦隊の運用思想から言えば戦艦4隻と装甲巡洋艦4隻の2個戦隊で戦力の集中を図るべきであった。更には、日本側は緒戦期に有利な対勢を作ることに失敗した。それは第1艦隊の他の戦隊は、遠く分散し過ぎていたこと、速力を上げようにも蒸気圧の準備が間に合わなかったこと、実際は15ノットの旅順艦隊の速力を12ノットと低く見積もって漫然と我が優速に頼った計画をしていたこと等の幕僚段階における見積もりの誤りと計画の杜撰さにあった。
(2)決定力を欠いた砲戦威力
砲戦の効果は低く、決定力を欠いた。旅順艦隊に対して劣勢であること、及びバルチック艦隊の迎撃までは、主力艦の損失を避けなければならないという圧迫から、緒戦において8,000mの遠距離射撃になり有効弾が得られなかった。また、後半、敵の混乱に乗じて3,500mの接近戦になったにもかかわらず、砲戦威力を集中することが出来なかった。これは、徹甲弾が装甲を貫徹できず破裂してしまうこと、近距離においても6インチ砲の命中精度が低かったことによる。また、各戦艦の12インチ主砲に砲身破損や発火装置の故障が多発した。更に、砲戦指揮において砲台毎の射撃であるために各砲台、各艦が射撃を始めると弾着観測及び修正が困難になるとともに、やむなく8,000―10,000mの遠距離射撃を実施することになると距離測定や照準が一層困難になり、不本意な砲戦な終始した。
(3)詰めが甘かった魚雷攻撃
駆逐隊、水雷艇隊の魚雷攻撃は不手際で何の成果も収めなかった。日本海軍は、速力は遅いが射程の大きい「甲種魚雷」と速力は早いが射程が短い「乙種魚雷」を保有していたが、接敵の困難性から甲種魚雷を主用した。停泊中の敵艦に対する襲撃ならともかくも、航行中の敵に遠距離で、しかも速力の遅い魚雷で攻撃して成果を得ることは技術的にも戦術的にも極めて困難であった。
(4)不備不徹底な情報通信
旅順とウラジオストクの2基地及び2つの部隊を偵察、哨戒しなければならないために哨戒線の設定も大まかで配備兵力も不足分散していた。駆逐艦や水雷艇の小艦艇は、眼高も低く視認距離も短い上に、通信機の不備、通信要領等が不徹底で、発見、識別、報告のサイクルが穴だらけであった。また、ロシア艦隊の速力を実際よりも低く見積もっていたために、日本艦隊は1−2ノットの優速を誇っていたが、ボイラの昇圧準備の不手際から追跡、情報収集を思うに任せず、旅順港に逃がしてしまった。
4.日本海海戦までの改革
黄海海戦後、バルチック艦隊との決戦が何時のことになるのか予測できず、短時間の内に改善改革を進めなければならない状況にあった明治海軍は、失敗の認識と改革への指導はトップダウンで、創造と改革の動機はボトムアップで、不可能を可能にし、黄海海戦時の日本海軍とは別の海軍を作り上げることに成功した。そして失敗の認識と改革の端緒は、人事刷新から始まった。
(1)改革は人事刷新から
海軍大臣山本権兵衛は、文字通り明治海軍を育て上げて、日清戦争を戦い抜き、その後の日露戦争準備の中心的役割を果たしてきた。従って、主要な幹部は勿論、中堅将校の人事について大きな影響力を有していた。連合艦隊司令長官に東郷平八郎を据えたように、年功序列や過去の経緯に囚われない人事を断行した。黄海海戦の状況を憂慮した山本は、海軍の変革を痛感し、先ず人事刷新を行った。各艦隊の参謀を50%も入れ替えた。指揮官の異動がごく僅かであったことに比較すると大幅な人事異動である。この人事の趣旨は、参謀の大幅異動が示すように、黄海海戦の失敗の責任を追及するという意味ではなく、作戦計画についての視点やロシア艦隊に対する認識の転換を図ることによって、前動に囚われることない作戦の実施を期待したところにある。黄海海戦までの経験者と非経験者の参謀を混在させることによって、客観的な海戦の教訓を抽出し、変革に結びつけることを狙った。また、参謀のいない駆逐隊等は、全く従来と発想を異にする鈴木貫太郎中佐等の若手指揮官を据えることで水雷戦術を画期的に転換することが出来た。黄海海戦後の海軍大変革を先ず人事で始めた山本海軍大臣の識見と実行力は、日本海海戦の成果の大きな要因であった。
(2)柔軟な兵力運用は機能的編成から
1895年4月、日清講和条約締結と同時に、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉が行われ、当時のわが国の国力からこれに屈する他無かった。日本は、直後の7月、軍務局長山本権兵衛少将の企画による海軍拡張10ヵ年計画を発動して、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹とする艦隊の整備を目指すことになった。当時、海戦の主力は戦艦であった。巡洋艦は、軽便・快速であり、監視偵察、保護警備、捜索等使い勝手の良い戦闘艦艇として重宝な存在であったが、艦隊決戦において雌雄を決する兵力としては火力も劣り、装甲も薄く戦艦の相手ではなかった。しかし、列国の艦艇技術の発展は目覚しく、砲力、装甲において戦艦に準じ、しかも優速の巡洋艦の建造を競う時期にあった。日本海軍も、1万トン弱の船体に、8インチ砲4門、6インチ砲12門、装甲7インチ、速力は戦艦よりも2−3ノット優速の性能を持つ「装甲巡洋艦」を保有することになった。こうして日本海軍は、世界に先駆けて「装甲巡洋艦戦隊」を編成し、戦艦戦隊とともに、優速をもって有利な位置に占位し、敵艦隊を圧迫し、戦艦の火力集中を支援することを目的に運用された。10年後の日露海戦を見越した戦艦戦隊、装甲巡洋艦戦隊の整備あった。また編制においても機能的な編制を取り入れ、艦隊の運用に関して新しい概念を取り入れた。各種艦艇を機能別速力別に組み合わせ、情況に応じて柔軟に運用できる編制は、日露の全艦艇が狭い海域に集中して行う海戦においては、質の異なる波状攻撃を徹底し、弾力性、機動性に富み、漏れの少ない戦闘が可能であり、相手の息の根を止めるには効果的な編制であった。 六六艦隊の作戦運用についての実証研究には、War-Gameを取り入れ、海軍大学校において指揮官、幕僚及び彼らの若き後継者が互いに率直に激論を交わし、作戦のコンセプトを共有した。黄海海戦で戦力の集中に失敗した日本艦隊は、多年研究を重ねてきた六六艦隊のコンセプトの正しさを反芻して、第1艦隊の第1戦隊を戦艦4,装甲巡洋艦2の6隻、第2戦隊を装甲巡洋艦6隻に改編して、日本海海戦に備えた。速力においても優速発揮の条件を整え、戦力の集中を容易にした。
日本の戦艦戦隊の速力を16ノット、装甲巡洋艦戦隊の速力を18ノットとし、機関運転規則を制定し速力発揮を整一にしたことは、ロシア海軍が新旧艦艇の混在で艦隊を編成したこともあって、日露海戦で艦隊の円滑な運用に大きな差が生じた。
(3)遠距離で高い射撃精度の砲戦術
黄海海戦の深刻な反省と教訓の一つは、砲戦威力の集中能力であった。その解決には、2つの改善改革が必要であった。即ち、1つは、遠距離の射撃精度の改善であり、2つは、砲戦指揮の改革である。当時、6インチ砲の砲戦距離は3,000―4,000mで行うことが通念になり、何時しかその砲戦距離で射撃をするものという固定観念が出来上がっていたが、実戦では彼我の対勢は常に変化し、8,000―10,000mでも射撃をする必要があった。黄海海戦の直後、砲戦関係者が集められ深刻な反省と教訓の抽出作業が行われた。その結果、「8,000―10,000mで命中弾を得る」ことを目標にし、黄海海戦終了直後の9月から猛訓練が開始された。更に、砲戦指揮法では、これまでの砲台毎の射撃指揮を改めて艦橋からの一元指揮に基づく一斉射撃指揮法へ転換した。各砲台の射手の個人的な技量に頼っていた射撃を、砲術長を頂点とする射撃管制のネットワークを構成し、距離測定、弾着観測・修正、通信連絡等をチーム作業にした。それによって部隊としての火力の集中と射撃精度を飛躍的に向上させた。
(4)近接襲撃で必中を期した水雷戦術
魚雷を兵器として導入したときから「高速魚雷の近接襲撃法」を主張していた鈴木貫太郎少佐が駆逐隊指揮官に就任して以来、水雷戦術が一変した。黄海海戦までの戦訓から鈍重な戦艦に比して駆逐艦や水雷艇がはるかに小型敏捷であり、敵艦からの有効な命中弾が無く、更に艦砲の俯角内に入り込むと射撃すら出来ないことが解っていた。しかしながら「権威」あるマカロフ提督の水雷戦術論や過去の経緯から抜け切れなかった駆逐隊は、日本海軍の手持ち魚雷の半分を無為に消費するまで戦術を変えなかった。夜間攻撃の明確なニーズのもと、人事刷新で経験の柵を捨て自己否定することで手段が創出され、日本海軍の水雷戦術は変革の機会を捉えることが出来た。5月27日の昼戦の後を受けて、駆逐隊等は、日没前にロシア艦隊に狙いを付けておき、暗夜に至って猛然と襲いかかり、肉薄近接攻撃で敵艦を撃沈破すると共に、航行中の艦隊に対して夜間の襲撃が有効であることを実証した。
(5)論理的研究と実証で得られた敵前大回頭
海戦の勝利を決定づけたのは、緒戦における主力部隊の柔軟な艦隊運動とT字戦法の成功による。会敵までの連合艦隊の運動と1405の敵前大回頭並びにその後に続く主導的艦隊運動により、常にロシア艦隊に優位な対勢を保ち続けた。このタイミングは、最終的には東郷司令長官の直感と決断にかかっていたが、T字戦法の成功に至るまでの論理的な研究と実証の両方の成果である。優速でも、跡追いの対勢は勿論、同航対勢、横切り対勢でも、主導権を持った確実なT字対勢の確保は困難であることから、反航若しくは斜め反航対勢で会敵すること、敵艦隊との距離を8,000―10,000mで回頭して敵の頭を押さえることの重要性を論理的に認識していた。そのために根拠地を朝鮮半島側鎮海湾に設定し、哨戒線の間合いを十分に取り、敵発見の通報受信から出港、陣形整形、会敵位置進出を計算してきた。幸運が味方したことは、東郷長官も認めるところであるが、「幸運の女神は、万全の準備をしている方に訪れる」(ノーベル賞受賞者小柴昌俊氏)の言葉通りである。
(6)縦深捜索の哨戒線と情報網
早期発見と識別、的確な動静把握と適切な通報によって、組織的に情勢を認識共有することが戦勝の要件であることを、海軍のみならず国民も思い知っていた。宮古島の久松五勇士がサバニの小舟を決死で漕いで、ロシア艦隊の出現を石垣島の電報局を通じて通報した逸話は、小島の漁師までが国家の危機を肌で感じていたことを物語っている。日本艦隊は、少ない手持ちの艦船から多くを割いて縦深的な哨戒網に配備した。最南端の哨戒線は対馬南端から130マイル付近に敷いた。ここで敵を捕捉すれば艦隊速力が10ノットでも12時間の猶予がある計算である。実際に海戦では、27日0230信濃丸の敵発見から1339の艦隊主力の会敵までに11時間であり、艦隊の態勢準備に十分な余裕が取れた。
また、国産の三六式送受信機を全艦に装備し、通信要領、妨害回避法、地点表示法等の研究と訓練を重ねて、専門的に通信情報に携わる兵員を養成した。なお、明治政府は、逓信制度の重要性を認識し、日清戦争直後の1896年には、琉球県の主要島に電信局を設置していた。
5.明治海軍の創造と変革の条件
日露戦争は、冒頭にも述べたように、超大国ロシアの脅威に対抗する近代化途上の日本が挑んだ戦争であった。その近代化の最先端を突き進んでいたのが海軍であった。海軍は、英国海軍を目標にし、人材を派遣し、国際法、政軍関係、教育等の各種制度の導入、軍制や軍備のあり方、軍艦や大砲の整備等、近代化に必要なものは、乏しい財力を絞って導入し、消化吸収に努めた。しかし、「我が国をどのように脅威から守るか」「どんな戦争をするのか」は、他から導入するものではなく自ら考え、自ら身につけなければならない。明治海軍の軍人達は、そこはキチンとわきまえて、独立自尊の精神と当事者意識を持っていた。明治海軍の変革と創造の背景には、国家として、海軍として「ロシアの脅威を排除する」という高い目標とその目標を全国民が共有する必要性を、政治指導者、軍人、教育者、企業人、言論人等社会のリーダーが理解していた。そして明治海軍には、国家存亡の最前線に立つ者としての当事者意識と使命感を持った人材に溢れ、体験的な知識と論理的な思考の均衡を持ち、例え成功した事業からも失敗の教訓を学び取る自己否定の度量と見識を備えていたことが、変革へ繋がった。
(1)高い目標と目標の共有
高い目標とそれを皆が当事者意識を持って共有したことが、組織としての創造と変革の動機になった。勝算は無くとも負けられないという高い目標を国民全体が堅持し、政軍民が共有した。特に、上下一体の組織を挙げての集中努力と自由闊達な発想と意見の開陳が出来る海軍内の雰囲気は、組織内での創造性を育む絶好の環境であった。達成容易でない目標を掲げ、理想と行動力を持った政治・軍事指導者が、中枢にも地方にも組織の要所に適材を得たこと、皆が当事者意識を持って制約に縛られない自由な発想をぶつけ合える環境に身を置くことが出来た。指導者は常に目標と手段の適合性を図って強力に実行してきたことが奏功に繋がった。
(2)成功体験から失敗を学ぶ
成功体験から失敗の教訓を学ぶだけの気概と自己否定の勇気を持っていたことが明治海軍に変革をもたらした。黄海海戦では、敵将ウイットゲフト以下の首脳陣を倒し敵艦隊を圧倒したことから、国内には「戦勝」の報道が舞った。しかし、海軍内の指揮官、幕僚は、海戦の不手際を深刻に受け止めた。計画通りに作戦が実施されなかったことへの反省である。形の上では戦勝である中で、失敗を学ぶことは至難である。これを為しえたのは、高い目標と達成への気概に基づいた真摯な研究と謙虚な実証である。戦争のシナリオ(戦策)と作戦計画には自信があった。「計画は万全であるのに、何故、計画通りに実施が出来なかったか」「どのようにロシアと戦い、一歩一歩積み重ねて、目標に到達するか」という主導的なシナリオに確信を持つまで実証研究していたことが幸いした。海軍大学校が中心になって10年間かけて策定されて、学生教育や艦隊との兵棋演習を通じて海軍内で認識を共有していた。それは独りよがりの独善的なシナリオではなく、受容できるリスクを常に図り、論理的で皆が納得出来るシナリオであったからこそ、何が失敗であったかの判断の基準たり得た。「学ばざる軍隊」と言われた日露戦争後の軍人達との大きな違いである。
(3)可能性への挑戦
目的に合致してニーズが明確なら、実施の可能性を何としても探ってみようと言う好奇心と挑戦意欲が創造的な戦術を開発した。近代化の途上にあって、気概に満ち高い理想に燃えた国家と国民は、常に可能性に挑戦し壁を打ち破る衝動に駆られた。そこに国家と海軍の若さが感じられる。海軍には、演習や実戦経験から、@繰り返し猛訓練を積み重ねることによって習熟改善されていくものと、A過去の経験の成果を自己否定して新たなニーズを求め手段を開発して変革していかなければならないものを峻別して実行に移していく勇気があった。射撃の遠距離命中率を上げるために模擬射撃や机上射撃の猛訓練を行ったり、魚雷襲撃の夜間接敵運動を繰り返し訓練し習熟することで改善を図り、砲戦指揮法を砲台ごとの指揮から艦橋の一斉射撃指揮法に変革したり、魚雷の遠距離襲撃法から肉薄近接編隊襲撃法に転換して変革した。黄海海戦までは、可能性が乏しく「出来っこない」とされて当初から選択肢から外されていたものが、新しい人材の投入と発想の転換で不可能な選択肢が可能な選択肢に代わっていった。何事にも、制約に逡巡し不可能の意識を先に持ってしまうと、敗北主義に繋がることは、明治の先達は良く承知していた。
6.結び
戦いは常に不透明さが付きまとう。まして超大国ロシアに対して東洋の小国日本が戦いを挑むとき不確定で予測困難な要素が蔓延していたことであろう。しかし、リスクはあるが高い目標に向かって10年間の時間を集中と英断で効果的に使い、「ロシアとどのような戦争をし、どのように決着を付けるか」という緻密なシナリオと計画を作成し、皆で共有した結果が日露戦争の戦勝に繋がった。正にトップダウンとボトムアップの意思の融合によって変革のサイクルが機能した。変革に際しては、両者共に自己否定にあった。上下共に、自分がこれまで経験し積み上げてきた成功体験を否定して、新しい必要条件を求め直し、壁を打ち破ることで新しい海軍のあり方が求め続けた。黄海海戦から日本海海戦への海軍の変革は、今日にも通じるものがある。目的に適うならば手段の可能性を追求し、変革を実行していく先達の勇気と創造性のDNAを継承していきたい。
参考資料
「創出の航跡」 吉田恵吾 すずさわ書店
「戦争の日本近現代史」 加藤陽子 講談社
「失敗を生かす仕事術」 畑村洋太郎 講談社
「東郷平八郎」 田中宏巳 ちくま書房
「坂の上の雲」 司馬遼太郎 文芸春秋社
「アルゼンチン観戦武官の記録」マヌエル・ガルシア(津島勝二訳)日本アルゼンチン協会
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