米国の核戦略と核弾頭 − その歴史的考察
(財)DRC研究参事
はじめに
米国の核戦略には、「運用政策」と「宣言政策」とがあると言われている。
運用政策は、核戦力の目標と配備及び使用計画とを定めるものである。1960年代以降は統合核運用計画(Single Integrated Operational
Plan:SIOP)が作成されているが、高度の軍事機密として文書自体は公表されていない。
宣言政策は、米国政府の建前として公表された指導理念であり、政権が変われば運用実態が変わらなくても、通常変わった名称が付けられる。
核戦略は、核兵器技術の影響を受け、核兵器開発は核戦略の影響を受ける。そこで、本稿は、運用政策と宣言政策と実際の核弾頭開発との関係を考察しようとするものである。
1. 1941年〜1954年
この時期は、核戦略はなく、核爆弾を単に「巨大な威力のある戦略爆弾」として捉え、戦略爆撃に使うという運用構想だった。この時期は、米国が核兵器を独占していた時代から、ソ連が1949年に最初の核実験を行い、数発の核兵器を保有するまでの期間である。
この時代の核兵器は、MkT、MkU、MkV、Mk4、Mk5の5種類の核爆弾である。核爆弾が巨大で非常に重く、かつ、ミサイルが発達していなかったために、唯一の運搬手段はB-29とB-50だった。
MkT核爆弾は、1943年6月から開発を開始した砲身型のLittle Boyと呼ばれる核爆弾である。約4tと非常に重く、貴重な濃縮ウランの利用効率が悪いために、5発だけしか製造せず1950年2月に製造を停止して、1951年1月には退役して次世代の核爆弾に取って代わられた。
MkU核爆弾は、1944年7月から開発を開始した爆縮型のU235とPu239との混合核爆弾である。この核爆弾は、正式核爆弾にはならなかった。
MkV核爆弾は、1945年8月から開発されたFat Man型の核爆弾で、当時保有していた核爆弾を広島・長崎に投下して在庫がなくなったために、急遽製造を始めた。1947年から約120発製造したが、プルトニウム核弾芯からの発熱や化学電池による腐食性のために、安全性・信頼性・即応性が悪く、また、投下弾道特性も悪くて精度が良くないために、1950年12月には退役となっている。
Mk4核爆弾は、1948年8月からMKV核爆弾と同時並行的に開発され、1949年3月からは最初の正式核爆弾として550発製造された。この核爆弾はアルミ合金製の弾体を使って軽量化を図ったが、命中精度と信頼性を向上させるため改良型の信管やその他の付属品が多くなり、全備重量は5tに近いものとなった。しかし、目標の大きさにより出力は10〜40ktの間で調整できるようになっている。この核爆弾も、その後軽量・小型化した核爆弾が出現し1953年5月には退役している。
Mk5核爆弾は、1946年〜1947年の間の小型化計画の成果を反映して1948年5月から開発に着手し合計140発製造された。この核爆弾は直径が約1m、重量が1,200sと非常に小型化しており、臨界量も長崎型のファットマンの半分になった。プルトニウムからの発熱の問題は中空吊り下げ式の核弾芯にして解決したために、非常に即応性・維持管理性が向上している。しかし、核分裂物質の爆発効率を向上させる強化原爆が実用化して1963年1月に退役している。この形式はW5弾頭として、地対地ミサイルRegulusT及びMatadorに100発搭載されたが、Mk5核爆弾と同じく1963年1月に退役している。
以上のとおり、この時期の核兵器は核爆弾であり、核爆弾の保有数が多くなっただけでなく、軽量・小型化して搭載できる戦略爆撃機の種類が増えて運用の融通性を高まった。すなわち、核爆弾が搭載できる航空機は、B-29と B-50だけから、B-36、P2V、AJ-1と艦載機にまで拡大している。また、核爆弾が常時組み立てた状態で保管できるようになり即応性・信頼性が大きく向上した。備蓄量も増加し、攻撃可能目標の数を増加した。また、核兵器を戦術的に使用する考え方が芽生えている。1953年を境に第1世代の原爆は退役し1951年から開発が始まった第2世代の原爆に変わっている。
2. 1954年〜1960年
この時期は、1949年にソ連が初めての核実験を行って実戦配備につけたために、米国は急速に核兵器を増産するとともに、核融合兵器の技術が完成させた時期である。この結果、米国が保有する核兵器の爆発出力は1959年に最大となる。
最初に増産を手がけたのは、核爆弾である。先ず、Mk6核爆弾を1951年1月から開発に着手し、1951年7月から大量生産に入り、1954年4月までの間に1,100発生産している。Mk6核爆弾は、出力40kt、直径1.52m、重量3.85tのプルトニウムを使用した核爆弾で、アルミ製軽量弾体を使用して戦闘爆撃機にまで搭載できるようになった。次いで1952年8月からはMk7核爆弾が、1953年7月からはW7弾頭の本格生産体制に入り、これを背景にしてアイゼンハワー大統領は1954年に「大量報復戦略」を声明した。Mk7核爆弾はウランを使用した爆縮型の事実上最初の戦術用核爆弾であり、出力20kt、直径78p、重量は725sであった。これと同型のW7弾頭は戦術ミサイルCorporal、Honest Johnの弾頭に使われるとともに、核地雷やBetty核爆雷、Boar空対地ミサイルとしても使用される多目的弾頭である。W7弾頭は、核弾芯を変えることにより、1〜10ktと60〜70ktとに出力が変えられるようになっていた。1958年に生産終了するまでに、Mk7核爆弾は470発、W7弾頭は300発製造されている。また、1957年からは、B39核爆弾が700発製造されている。(いずれも、1967年に退役した)
1950年になると朝鮮戦争が始まり、純粋な戦術核兵器の必要性が叫ばれるようになった。この結果、1952年4月から280o榴弾砲用のMk9核砲弾(出力15kt, 重量366s,直径28p,長さ138cm)が80発、1956年3月からはMk19核砲弾(出力15kt、重量 272s,直径28p,長さ138cm)が80発、1957年1月からは8インチ砲用のS33核砲弾(出力1〜2kt、重量110s、1992年に退役)が1,000発製造されるとともに、1956年12月からは16インチ艦砲用S23核砲弾(出力15〜20kt、重量867kg、1962年に退役)が50発製造された。また、1956年4月からは出力5ktと小型のB36戦術核爆弾940発の製造が開始された。さらに、1956年11月からはGenie空対空ミサイル用に1.5ktと非常に小型(375kg)のEC25弾頭及びW25弾頭が1,000発製造された。(1987年に退役)また、1959年2月からは艦艇の対空ミサイルTalosと戦術爆雷用W30弾頭(出力5kt、1961年に退役)をそれぞれ300発ずつ、及びLULU爆雷・Astor魚雷用W34弾頭が3,200発製造された。
一方では出力の強化にも努力し、ウラン235を60〜90s使ったと言われる500kt級の純核分裂兵器としては最大のMk18核爆弾90発が1955年11月から製造を開始されている(1962年に退役)。しかし、この時期には水爆の技術が確立した。このため、1954年10月からは最初のメガトン級水爆Mk17核爆弾(重量21t)200発の製造を開始した。その後、1955年12月からはB21核爆弾(出力10Mt、重量7.9t)を275発(1957年に退役)、1954年10月からはB24核爆弾を105発(1957年に退役)、1958年11月からはB27核爆弾(出力4Mt、重量1.45t)を700発製造開始した。更に、1958年末からB28核爆弾(出力2Mt、重量約900s) 4,500発と空対地ミサイルHound Dog及び 地対地ミサイルMace用のW28弾頭(出力2Mt、重量約850s)600発を、次々と製造開始した。(これらは、いずれも1971年に退役した。)
また、1956年までには重水素と三重水素を中心部に入れた強化原爆の技術が確立し、これを利用してフォールアウトの生成が少ない、いわゆる「きれいな」核兵器の開発を進めた。1958年10月からは地対地ミサイルHonest John及び地対空ミサイルNike Hercules用W31弾頭(出力20kt、1984年に退役)をそれぞれ1,650発及び2,250発製造開始した。また、1958年4月からは、最初の中距離弾道弾Snark及びRedstone用W39弾頭(出力4Mt、1966年に退役)がそれぞれ30発及び60発製造されRedstoneは西ドイツに配備された。1959年9月からは地対空ミサイルBomarc及び地対地ミサイルLacrosse用W40弾頭(出力7〜10kt、1972年に退役)をそれぞれ350発及び400発製造開始した。続いて、1961年5月からは最初の大陸間弾道弾であるAtlasとTitan用W38弾頭(4Mt:きれいな水爆、1965年に退役)をそれぞれ110発と70発製造開始している。このきれいな水爆とは、起爆用核分裂装置にも重水素−三重水素による核融合反応を組み込み、かつ、中性子反射材にベリリウムを使い、熱線反射材には2次核分裂を起こさない炭化タングステン等の材料を使った核融合兵器だと思われる。また、第一世代の水素爆弾は、技術的な進歩により1957年を境に第二世代に変わった。
これらの核兵器開発は、空軍と海軍とがそれぞれ独自に行い、目標配当が重複したために核兵器使用計画の統合が必要となった。そこで、1960年8月アイゼンハワー大統領は核兵器使用計画の責任を戦略空軍司令部に一元化することに決定し、1960年12月に最初の統合運用計画(SIOP-62)が完成した。
3. 1961年〜1974年
この時期は米国の核兵器の在庫量は十分となる一方で、ソ連の核戦力が次第に米国の核戦力に近づき、米国の核戦力とほぼ均衡に達する時期である。米国の核戦力は、旧式の核弾頭を廃棄し、質の向上を図った時期に相当する。米ソの核戦力が均衡に達しつつあることから、ケネディー・ジョンソン政権で国防長官として手腕をふるったマクナマラは、「核兵器を保有し軍事大国であるソ連との衝突が避けられなくなっても、相互の国を壊滅させかねない大規模な核戦争は絶対避けなければならない」と考えた。そこで、大量報復戦略は硬直であると指摘し、段階的な戦闘手段の拡大をさせる全面核戦争以外の選択肢を求めた。これが、「通常戦争による抵抗→戦域核兵器の使用→戦略核兵器使用への段階的拡大」とつながる「柔軟反応戦略」だった。
この時期の最大の特徴は、機動力のある戦域核兵器という概念の導入であり、主として西欧に配備して戦域の軍事目標の破壊を目的とする核弾頭ミサイルである。最初に導入されたのがJupiterミサイル(核弾頭はW49弾頭、出力4Mt、30発製造、1975年に退役)であり、1961年にイタリアに配備された。次いで、Sergeantミサイルが1963年に西ドイツに配備された。これは戦術用Corporalミサイルの後継ミサイルではあるが、その弾頭は核融合反応により爆発出力を強化した強化原爆(W52弾頭、500kt級、1978年に退役)であり、300発製造されている。引き続き1963年に最初の固体燃料ミサイルPershingミサイルが西ドイツに導入された。このミサイルは3種類のW50弾頭があり、出力が60kt、200kt、400ktの強化原爆であり合計280発製造されている(Pershingミサイル弾頭はINF条約発効とともに1998年に退役)。
戦略核兵器の質的な向上目標は「防御網の突破力」であり、また、ミサイル技術の発達にともなって潜水艦発射弾道弾、大陸間弾道弾、戦略爆撃機の戦略核兵器3本柱が確立した。
1960年4月には600ktの核兵器を搭載したPolaris潜水艦が就航し(製造したEC47弾頭の数300発、1960年に退役)、引き続き同年6月には800ktの核兵器を搭載したPolaris潜水艦が就航し(製造したW47弾頭の数1,060発、1974年に退役)、更に、1964年3月には200ktの核兵器を搭載したPolaris潜水艦が就航した(製造したW58弾頭の数1,400発1982年に退役)。1970年になると40〜50ktのW68弾頭を6〜14個弾頭に詰めたPoseidonが就航した(製造したW68弾頭の数5,220発、1978年以降逐在庫量を次削減中)。潜水艦発射弾道弾はその所在の確認が困難であり、かつ、ソ連の近くから防空網を掻い潜って攻撃できることから、抗堪力がありかつ防御網の突破力が非常に大きい。
大陸間弾道弾については、1963年7月に就役したMinuteman1A(W56単弾頭、出力:1.2Mt、製造弾頭数:1,000発)は固体燃料であり即応性が高くなるとともに、その後も次々と改良された結果、1970年3月には多核弾頭化したMinutemanV(W62弾頭3、出力:各170kt、製造弾頭数:1,725発)が就役し、防御網突破力が格段に向上した。
投下用核爆弾については、1960年9月から24Mtという米国史上最大の爆発出力を持つMk41核爆弾を500発(1976年に退役)、1961年4月から出力が1〜2MtのMk43弾頭を1,000発(1993年に退役)、1962年8月から出力が9MtのMk53弾頭を340発(1983年に退役)、1968年1月から出力が10〜500ktのMk61弾頭(現在も使用)を3,600発製造開始した。核爆弾の形状は次第に流線型となり、遠方から投下して滑空し限定的な誘導ができるようになった。
この時期に製造された弾頭・核爆弾の信管・安全機構の回路は、EMPに対抗する能力があり、すべての起爆用原爆は中心に重水素と三重水素をつめた強化原爆となり小型化している。また、1961年に作成された統合運用計画(SIOP-63)によると、戦略核兵器の攻撃目標は、第1優先がソ連の核戦力、第2優先が防空システム等の軍事施設、第3優先が都市周辺の軍事施設、第4優先は指揮・統制機構、第5優先は都市及び産業施設だった。目標の性質によって爆発形式(高空・低空・地表)と爆発出力が簡単に変えられるように、信管の機構が進歩している。更に、高価な核分裂性物質の経済的な利用を図るとともに命中精度が向上したために、出力がメガトン級から次第に数百キロトン級に小型化し、かつ軽量化している。
ABMの開発・配備には、「民間防衛に関して国民の支持が得られないこと、ソ連の核兵器開発を促進して軍備拡張競争を激化させること、軍備拡張競争によっては米国の安全保障が改善しないこと」等を理由に、マクナマラが強く反対していた。しかし、開発努力は地対空及び艦対空ミサイルの研究の一環として地道に続けられた。1959年9月からはBomarc地対空ミサイル等の弾頭のW40弾頭(出力数kt、1972年に退役)が750発、1961年5月からはTerrier艦隊空ミサイル等の弾頭のW45弾頭(出力数kt、1992年に退役)が1,600発、1974年10月からはSprint 対ミサイル・ミサイル用のW66弾頭(出力20kt、1986年に退役)が70発、Spartan 対ミサイル・ミサイル用のW71弾頭(出力20kt)30発の製造が開始された。このうち、W66弾頭は爆縮型のプルトニウム核爆弾のタンパーにベリリウム又は炭化タングステンを使い、中心部に三重水素を封じ込めた最初の中性子爆弾である。即ち、強力な中性子線により、敵ミサイルの核弾頭部の機能を破壊するものだった。
戦術核兵器としては、1961年4月に個人携帯型の核ミサイルDavy
Crockett用のW54核弾頭(出力0.25kt、重量26.6s、1972年に退役)が400発製造開始され、同じ弾頭がFalcon空対地ミサイル用に1,000発、特殊核地雷用に260発製造された。1963年10月から155o榴弾砲用W48核砲弾(出力0.1kt、1990年に退役)が1,060発製造開始された。これは、出力が1〜2kt、重量が54.5sの爆縮型プルトニウム弾だと言われている。一般に核砲弾は、砲身型ウラン弾が適すると言われているが、W48核砲弾が開発された事実から、特殊な爆縮方法が考案されたことが推定される。1973年6月からは地対地ミサイルにも中性子爆弾の導入が始まり、Lanceミサイル用にW70弾頭(出力1〜2kt、1990年に退役)が合計1,280発製造された。この弾頭は、爆発出力のうち、核分裂寄与分が40%、核融合寄与分が60%だと言われている。しかし、個人携帯型の核ミサイルDavy Crockettは、核兵器の運用統制が困難になるとの理由で実際に交付されるまでにはいたらなかった。
ソ連の海洋戦力増強に伴い、対潜水艦用核兵器も発達した。1963年1月以降航空機から投下する爆雷Mk57(出力5〜10kt)が3,100発製造され、1964年6月からは最初の水中発射ロケットSubroc用のW55弾頭(出力1〜5kt)が285発製造された。また、1972年2月以降短距離攻撃ミサイル(SRAM)用のW69弾頭(出力170〜200kt)1,200発が製造された。さらに、1972年4月から空対地ミサイルWalleye用のW72弾頭(出力5〜10kt)300発が製造された。
このように、多種多様な核兵器の製造に向かった背景には、1962年6月にミシガン州アン・アーバーにおけるマクナマラ演説「核戦争時における主要目標は敵の軍事力であり、一般市民ではない」に象徴される「対軍事目標攻撃」戦略がある。しかし、軍事費の無制限な増加や核戦力増強は第一撃能力の追求と見られかねず、また、ソ連が必ずしも「対軍事目標攻撃」戦略を採用するとは限らない等の理由から、「確証破壊戦略」へと次第に転換することになる。やがて、米ソの相互脆弱性が大きくなり、「相互確証破壊戦略」として知られるようになった。
4. 1974年〜1980年
この時期は、米ソの核戦力が均衡した安定な時期であり、戦略的な安定性を求める軍備管理交渉が進み、核弾頭は特別な進歩を見なかった。1969年1月に発足したニクソン政権は、ベトナム戦争の影響を受けて、核兵器の製造を大幅に抑制し、「相互確証破壊戦略」を継承した。その後検討を重ねていた「限定的報復核戦略」を1974年1月に文書化して、「国家安全保障政策決定事項メモ-242(NSDM-242)」が作成され、これを受けて統合運用計画(SIOP-5)が1976年1月に発効した。この根底にある考え方は、米ソ両国の相互脆弱性を制度化し戦略戦力の均衡を保つ中で、小刻みな限定核報復力を持ってソ連の限定攻撃の誘因を除去することである。この戦略は、フォード政権とカーター政権にも引き継がれた。カーター政権は、1980年7月新戦略「相殺戦略」を大統領指令-59(PD-59)をとして決定した。そして、1970年には核拡散防止条約を発効させるとともに、1972年に戦略兵器制限条約に関する暫定協定(SALTT)及び弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約に調印し、次いで1974年に米ソ地下核実験制限条約に調印する等緊張緩和に乗り出した。したがって、この間においては核兵器の開発がほとんど行われず、わずかに核戦力を維持するのに必要な程度の小規模な核弾頭・核爆弾の製造が行われていたに過ぎない。
しかしながら、カーター政権末期には欧州中距離核戦力(INF)制限交渉を開始したものの、ソ連の戦略戦力が逐次増強されていることを知り、次第に強硬路線への転換が進んだ。これを受けて、先ず取り組んだのが戦略核兵器の脆弱性の除去と突破力の向上である。即ち、1978年11月にはMIRV化したTridentT用のW76弾頭(出力100kt、重量165s)を3,000発製造開始するとともに、1979年9月には各種防御機構を強化したMinutemanV用のW78弾頭(MIRV、出力335kt×3、重量365s)1,000発の製造を開始した。
5. 1981年〜1991年
この時期は、1981年に発足したリーガン政権は「相互確証破壊戦略」の枠の中で、同年10月に大規模な戦略戦力近代化計画を打ち出し、再度核軍拡に入った時期である。戦略戦力近代化計画を受けて、1979年に調印した戦略兵器制限条約(SALTU)の批准を拒否し、1982年から戦略兵器削減(START)交渉を開始するとともに、これまで抑制していた核弾頭の大増産に踏み切った。増産した核弾頭は、カーター政権末期に製造段階に入ったTridentT用のW76弾頭とMinutemanV用のW78弾頭とともに、1982年から新たに巡航ミサイル用弾頭W80とW84(出力150〜170kt、重量133s、直径30p、長さ80p)1,650発の開発・製造され、出力がMt級の新型戦略核爆弾B83約1,000発が製造され、大陸間弾道弾MX用のW87弾頭(出力300kt又は475kt×10)1,055発を1986年4月から、TridentU用のW88弾頭(出力150-600kt×10〜15)が1989年から製造された。新型戦略核爆弾B83は1983年九月から製造が開始され、プルトニウムとウランの混合材料を使い、ソ連の大陸間弾道弾の地下サイロを標的にすべく工夫していたと言われている。1987年にINF条約が調印されると、分厚い防空網を突破できる核戦力が不足し、また、ソ連のSLBMに対する対応が不備であるとして1983年に戦略防衛構想(SDI)を打ち出した。
1982年2月からはALCM用W80-1弾頭(出力200kt)1,739発、1983年9月からはGLCM用Mk84弾頭(出力10〜80kt、寸法はW80弾頭とほぼ同じ)637発、1984年3月からはSLBM用W80-0弾頭(出力150〜170kt、重量133s、直径30p、長さ80p)3,994発の製造を開始した。これらの弾頭は、爆縮型ウラン弾と三重水素を組み合わせた強化原爆にも中性子爆弾にもなる出力可変型の弾頭である。
戦術核兵器も新たに製造された。1981年9月からは、203o榴弾砲用W79核砲弾325発の製造に入った。この核砲弾は、プルトニウムと三重水素を使った中性子砲弾であり、出力は0.1kt〜2ktで核分裂と核融合の割合は50:50〜25:75に変えることが出来ると言う。なお、1986年8月から同じく核融合の割合を変えられるW79核砲弾(出力数t〜10kt、重量98s、直径20・3cm、長さ109p)も225発製造開始された。1983年5月からは、PershingU用W85弾頭(出力5〜50kt、ウラン弾)が120発製造され始めた。
SDIについては盛んに論議されたが、ABM制限条約との関係が不明確であり、また、迎撃技術が未成熟であったために、ソ連に向けた政治的手段として一人歩きして、開発に向けての結論が出ないまま1991年のソ連崩壊を迎える。
6. 1991年〜2000年
この時期はソ連の崩壊を受けて核兵器の削減時期にあたり、明確な意思表示はないものの「相互確証破壊戦略」の中で核戦力の備蓄量の削減と即応体制の緩和が行われた。
1990年12月には米ソが地下核実験制限条約を批准し、1991年10月にはソ連が核実験凍結を宣言し、1992年には米国が核実験凍結を宣言するとともに、引き続き1993年1月には米・ロがSTARTUを批准した。ところが、1998年5月になってインドとパキスタンが核実験を行い、核兵器の位置付けについて見直すきっかけとなった。湾岸戦争や旧ユーゴ紛争等中規模の紛争も生起したが、2000年までの間に、核兵器の位置付けに関しての新しいドクトリンや新しい核弾頭ができたとの報道は見当たらない。
7. 2001年以降
ブッシュ政権が発足以降、米国は単独主義を強行している。核戦略の分野でも単独主義の傾向が強く、2001年12月13日には「相互確証破壊」戦略の前提となっていたABM条約からの脱退を宣言する一方で、2002年5月24日に米・ロ戦略核兵器削減条約(通称「モスクワ条約」)に署名した。ここに来て米国の核戦略は、対ロシア核戦略から少し変質し、対ロシア核戦略を見据えつつ新興核兵器国に対する核戦略に重点を移しつつある。それを端的に示すのが2002年12月11日に発表された「大量破壊兵器と闘う国家戦略」であり、「敵対する国家やテロリストによる大量破壊兵器の保有は、米国の直面する安全保障上最大の難問の一つである」としている。また、これに対する国家戦略を、次の三つに区分している。
@
拡散対抗(Counterproliferation)
A 不拡散(Nonproliferation)
B
大量破壊兵器使用結果への対処(Consequence
Management to Respond to WMD Use)
ここで、拡散対処の範疇に核兵器の先制使用を明確にしている。このために、2003年5月9日上院軍事委員会は小型核兵器の開発凍結を解除するとともに、関連費用が入った2004年度国防省予算を可決した。ここでいう小型核兵器は、地下構築物を破壊するための核兵器だと思われる。SIPRI年鑑2002によると、2002年1月現在の核兵器保有数と核弾頭の現況は、表1及び表2のとおりである。
表1 2002年1月現在の核兵器保有数
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種 類 |
名 称 |
配備数 |
配備年度 |
航続距離(q) |
弾頭数×出力 |
弾頭数 |
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戦略核兵器 |
||||||
|
爆撃機 |
||||||
|
B-52H |
Stratofortress |
|||||